ヌードの夜

 

 現代のアメリカで、体毛の意識的な除去ほど当たり前と見なされている習慣はない……最近の研究によると、アメリカ人女性の99パーセントはみずからの意思で脱毛している。定期的に脱毛している人は85パーセントで、なかには毎日という人もいる。今のところ、対象となる部位は脚や腋、眉、鼻の下、そしてビキニラインがごく一般的。……2008年のある調査によれば、不要な体毛を剃る(比較的安価な方法)というアメリカ人女性は生涯を通じて、ムダ毛を処理するためだけに平均1万ドル以上のお金と丸々1カ月を費やすことになるという。月に12度ワックス脱毛する場合は、生涯で23000ドルを費やす。……

 このように体毛を忌み嫌うようになった主な原因は、何だろう? これまでの歴史的研究を見ても、あまり手がかりは得られない。アメリカにおける美容に関するさまざまな事柄――化粧品や豊胸手術、美容整形、ヘアスタイリングなど――については豊富な研究がなされているが、体毛除去はまったくといっていいほど無視されている。では、何度も繰り返す必要があって費用もかかる――厄介で痛みを伴い、外見を損なうことも珍しくなく、下手をしたら命も落としかねない――この習慣が普及していることを、どう理解したらいいのだろうか?……

 個人の意思や意図といった永遠の謎に関心がないわけではないが、本書では別の方法をとろうと思う。脱毛するという選択について検討するのではなく、そもそも体毛は誰にとって、どういった点で問題になるのかを示してみたい。そんなふうにさまざま選択肢の歴史をたどることで、誰の苦痛した体験が問題となり、誰の苦痛が排除されるのかが見えてくるだろう。

 

 時は18世紀、先住民をめぐってアメリカでとある論争が戦われた。テーマは体毛、彼らインディアンが概ね示す滑らかな肌は、ヨーロッパよりの移住者たちの関心を大いに惹きつけた。たかが髭や体毛の濃淡、されどこのコントラストはかのトマス・ジェファーソンをも悩ませる、当時の国論を二分するほどの巨大トピックへと発展する。というのも、「自然界の秩序に関するこういった疑問には、政治的秩序の問題が必然的に関わっていたからだ。つまり、インディアンはヨーロッパ風の生活様式に転向させることができるのか、それとも本質的で変更不可の違いによって同化は不可能なのかという点だ」。一方では、その体毛の薄さが単に日ごろからのトリートメントの結果に過ぎないことをたやすく見抜いて指摘する声もあった。しかし、彼らと自分たちとを絶対的に隔てる何らかの説明関数を欲していた入植白人の眼には、体毛という視覚的に露わな何かは、たまらなく魅力的に映ってやまない。

 

 この論争をひもとくにあたって決定的な人物がまもなく登場する。チャールズ・ダーウィンという。

 体毛は彼を混乱に引きずり込まずにはいない。「体毛の存在自体は確かに、ヒトは『サルのような生き物から進化した』という主張を裏づけているように思われた」。この観点に立てば、体毛の希薄化こそが進化の目に見える証と捉えられて然るべきところだろう。しかし、ダーウィンはその困惑をためらいなく告白する、「体毛がないのは不都合で、暑い気候においてさえ、身体にとって害になることもある。特に雨天のときなどは、ふいに肌寒さに襲われるからだ。……むき出しの肌がヒトにとって直接的な利益になると考える人はいない。ゆえに、ヒトの身体から体毛がなくなったのが自然選択によるとは、とても考えられない」。

 今日的な通説として私が知る限りでは、保温性をトレード・オフに薄い体毛が排熱性を高め、結果として、他に類を見ない持久力を助けている、という仕方でどうやら説明が与えられているらしい。

 しかし、当時の科学者にとっての関心はそんなところにはなかった。つまり、彼らは体毛の濃淡を「性的倒錯」や「精神錯乱」のシグナルとみなした。C.ロンブローゾの申し子たちは皆、この官能に惹きつけられた。女性における「多すぎる体毛は犯罪的暴力や『強い性的本能』と同じく、並外れた『獣のような激しさ』と相関性があるのは自明のことだと述べたのだ」。

 

 以下、あくまで個人的なインプレッションとして記す、評としての妥当性は何ら担保しない。

 本書は終盤へと近づくほどに失速する、というのも、「個人の意思や意図といった永遠の謎」への推測を巡らせることをあえて回避するのだから。その理由は、筆者が何ら隠すことなく言及するように、ミシェル・フーコーに他ならない。言われてみれば、タイトルからして彼の支配下にあることは明白だった。なぜかなんて分からない、調べようもない、けれども事実として、とりわけ女性たちは「生政治」の赴くままに、ワックスやレーザー脱毛、果ては遺伝子操作へと動員されていく、そうした同時代的現象の観察に本書はひたすらに紙幅を費やす。

 もちろん、このアプローチの有為性についてはいかなる異論の余地はない。それは例えば犯罪者による動機の告白になど実のところ何ら耳を傾けるべきものなどなくて、その者の属する各種セグメントと当該行動の統計的な相関性こそがほぼ唯一の圧倒的な説明をもたらしてしまうように。確率論の骰子一擲の退屈な実演の他になすべきものを持たないすべて人間にいかなる内面をも措定すべき理由は与えられていない。人々が現に各種の除毛に金を落としている、この事象を消費性向の計算の他にいかなる言語で論じる必要があるだろう。

 そしてその動員の作法は、異なる文脈の相から覗けば、しばしば呪術的な見え方しかしない。

 古い文献をたどっていくことで、そのコンテクスト下におけるパラダイムの非自明性が暴露されていく、そのアプローチはただし、こと同時代を対象にすると、読み物としてしばしば極めて退屈なものとなる。なにせ、ほとんどが見知った光景なのである、良くてせいぜいが業界もののルポルタージュ、悪い言い方をすれば新味を欠いた記事スクラップの寄せ集め。一世紀前のX線を用いた施術に対して目を覆わんばかりに戦慄を覚え、しかし今日のレーザーによる除毛のダメージには、まあ、そんなことも起きるでしょうね、とやけに冷静に読み飛ばす。このスタンスの差は、単に科学的リスクの深刻度に由来するものではない。

 私たちがダーウィン狂騒曲を好奇の目をもって眺めるように、百年後の眼差しからはエステサロンの隆盛も「生政治」の特殊性を前提とした文化人類学的な関心を惹きつけるのかもしれない。しかし、今日の私にとっては、体毛がどうやら忌避されるものだということを実例つきで見せられても、うん、知ってる、でしかない、無論、美容へと動員される人々が自らの「生政治」メカニズムを言語化するいかなる術をも持たないことを踏まえた上で。もっとも、たとえ言説を追いかけたところで、広告戦略分析の域を超えるものはおそらくは打ち出されることはなく、マス・マーケティングのサンプルを並べる以上のことができるとも思えない。

 すべては因果の取り違えでしかない。体毛が敬遠されるから美容産業が栄えるのではない、美容産業の繁栄から体毛への嫌忌が推定されるに過ぎない。