Worst Behavior

 

 主人公の一果はフードファイター、テレビ番組「真の大食い王者は誰だ?!」では4連覇を達成し、チャンピオンの座に君臨している。陽の目こそ見なかったものの元グラドルというルックスと上品な食べ方から「大食いクイーン一果」との愛称を授けられ、放送直後にはSNSのトレンドワードにそのニックネームが浮上する社会的認知度を誇る。もっとも彼女がメディアに露出するのは年に一度の「真王」のシーズンにほぼ限られる。テレビタレント化することもなく、YouTubeチャンネルを開設することもなく、その日常といえば彼氏と同棲する、しがないスーパーのパートタイマー。

 そんな無敵の女王に対して今回の予選では思わぬダークホースが台頭する。「いっさいの感情を表に出さず、ただ黙々と機械的に、目の前の食べ物をとりこんでいく。前屈みになってわずかしか開かない口に、無理やりねじ込むように食べ物を入れるので、こぼしたり、口元を汚したりと、食べる姿は見ていて決して気持ちのいいものではない」、そんな通称「鉄仮面」の前に一果はついに後塵を喫する。

 

「底が見えた気がした。」

 この一文をもって本書は書き出される。

 当然、一つ目のミーニングとしては、フードファイターとしての「底」を指す。誰と比べて一皿でも1グラムでも多く食べるかではない。「私は、私の底を知りたかった。おそらく、ずっとそう思ってきたのだ。隙間なく食べ物を詰め込んだ先に、恵まれた身体の奥行の先に、コントロールし得ない領域まで達した時の自分の最奥部を感じたかった」。

 しかし、そのストイックな姿を追うに留まるのならば、それは一介の業界もの似非ドキュメンタリーの域を超えない。本書に埋め込まれた第二の「底」は、例えば同棲相手の亮介とのささいな行き違いのシーンに現れる。

「亮介は、互いの主張によって意見がぶつかりそうになる時、会話が深刻になりそうな時、すばやくそれを回避する。くだらない発言やふざけた調子で場を和ませ、少々強引なほど話題を変える。そういう時の亮介は、どこか必死で、かわいそうなほどに切実だ。彼は同時に、自分が理解できない物事に直面しても突き詰めて考えずに踏みとどまる。それでいて、相手に気を遣って発言を控えたりはしない。言葉を口にする前に考えるのではなく、口にした後の相手の反応を見て後悔するのだ。私は私で追及しないので、基本的に摩擦は起きない。本音でぶつからない分、つき合いは長くても互いに心の底から分かり合えているとは言い難い」。

 あえて「摩擦」を起こす、相手の「底」に触れるような何かを起こす。そのハイライトが、大会決勝にて訪れる。「鉄仮面」に追い詰められて絶体絶命のラスト数分、一果はまとっていたゼッケンとパーカーを脱ぎ捨てて、勝負服のビキニ水着を露わにする。「真っ白な胸元が日差しにさらされ、谷間を細く長い汗の筋が緩く流れていく。胸のすぐ下から大きく弧を描くように膨張した腹は、伸びた皮膚が張り詰め、表面には浮き出た血管が亀裂のようにはしる」。その刹那、彼女は思った。「自分の膨れた腹を、その瞬間のリアルな苦しさ、過酷さを、カメラの前で明示したいと思った。限界などなく易々と口に運び続ける姿がプロであり、私の強みであるなら、世間が抱く幻想を打ち破りたかった」。

 見たくないものは見ない。そんな視聴者にとってはしかし、衣服の覆いをはぎ取った彼女の「底」は表題そのまま「エラー」に過ぎない。歪な半裸はgifやスクショによってすぐさまネット上に拡散され、冷ややかなSNSのレスポンスをもって、彼女は自らの王朝の終わりを知る。

 見たいものだけを見る。そんな世間に向けて、新女王の座に就いた「鉄仮面」が提供したのは、それまでの無表情を一変させて、息子たちに勝利の報告をするその笑顔だった。ヒールから一転、「仮面の下にのぞく優しい母の顔」という咀嚼の容易な感動ポルノは、いかにも彼らが欲してやまないものだった。

 一果とて、かつてはその求めに応じてきた。例えばステーキの感想を問われて言うことには、「柔らかいんですけど、弾力もあって、ジュ―シーで……! もう、口の中に広がる肉汁がやばいですね。……半端ないです。一生食べていたいっ!! とにかく牛さんに感謝したいですね」。

 しかし実際のところといえば、「香りを嗅ぐと満腹感を覚えやすく味にも飽きやすくなるため、極力嗅がないようにしている。そのため、どんな味がしたのか、どんな食感だったのか、大会が終わってみてもほとんど記憶に残っていない。それでも司会者は毎度ご丁寧にコメントを求めてくるので、原料や生産者に感謝の気持ちを伝えるのだ」。無論、そんな腹の「底」など、大衆は知る由もない、いや、単に知る気がない。

 大会を控えて、彼女が消化器のコンディションを慣らすために食するのは、「米を水でふやかし量をかさ増ししたおかゆや、茹でた麺。大量に用意しては、味付けをせず、水と交互に胃の中に流し込む」。しかし一般視聴者はそんな「底」など思いも至らない。あくまで彼らが欲するのは、自らに代わって食欲という快楽原理をだらしなく満たすモンスターの表象でしかない。

 

 誰も「底」など望んでいない、だからひたすら目を背ける。

 そんな時代の肖像を刻む。

 

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