母をたずねて三千里

 

「あさ、眼をさますときの気持は、面白い」――

 そう思えたのも遠い昔、「わからないな。ただ朝に目が覚めることの、何がそんなにおもしろかったんだっけ。ここにあるのは、おなじみの頭痛と喉の渇きに加えて、悪夢を起因とした動悸。それと大事なものを忘れている不安感が胃の底に溜まっているだけで、おもしろいことは何もない。わからない。……

 自分が誰だったかを思い出す。何もかもを思い出す。女友達などいなかったことを思い出す。残念ながら私には、秘密を共有するような近しい友人はこれまでひとりもいなかった。さっきまで思い出していた女の子は、子供時代につくりだした空想上の友達、私の脳内にしか存在しない。今、私には娘だけがいる。まずやるべきこと。娘のために朝食を用意する」。

 しかしそのベーコンエッグに14歳の娘は手をつけようとはしない。ヴィーガンにかぶれた彼女は、その理由を英語で滔々とまくしたてる、「私」が十全にその意を解さないことなど知り切った上で。彼女の第一言語は英語、インターナショナルスクールに通い、外資系勤務の父との会話も専ら英語で済ます。

 そして彼女はYouTuberでもある。「どうしても読みたい小説があれば、あらすじとオチだけネットで調べて時間を節約したらいいんですよ」と言い放つ、ひろゆき堀江貴文的な一群を崇める典型的ビリーヴァーが、なぜかたまたまグレタ・トゥーンベリによってその方向性を規定されてしまった「功利主義者/利他主義者/菜食主義者/現実主義者」の彼女のチャンネルのテーマは、環境問題をはじめとした啓発動画、「世界の、あらゆることを知っている」彼女のソースはもちろん専らGoogleWikipedia

 そんな彼女が、英語ではなくあえて日本語で動画をアップするようになる。彼女の言い回しに従えば、日本語は“shy”、「言葉にくっついている意味のまわりを、永遠にぐるぐるしているイメージがあるんですよ。真ん中にはどうやってもたどり着かなくて、ただ意味の気配だけを寄せ集めているみたいな」。それなのに、 “tough”な英語ではなく、あえて日本語を選ぶ。もちろん彼女は大義を謳うだろう、フィルターバブルの壁を突き破って愚民どもに向けてもメッセージを届けねばならない、云々と。

 彼女はまだ気づいていない、それこそが母である「私」の書棚の奥深くから掘り出した太宰治の『女生徒』に自らが触発された証であることを。

 

 

 彼女にとって小説とは「不要不急の役に立たない代物」で、太宰に至っては「自分の妄想世界に閉じこもるだけ閉じこもって他者を顧みない、幼稚なエゴイストにしてナルシスト、そんな小説家という人種にはとことん呆れてしまいます」と切り捨てる。ネイティヴならナルシシストnarcissist言うやろ、とそんなツッコミはさておいて、日本語の“shy”を凝縮したような、「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」にはじまる、読点だらけのテキストに不平を垂れつつも、「これがなんか癖になる。私とはべつの思考回路を持った女の子が、頭の中に入り込んできて、私を乗っ取っていく感じがする」。それはちょうど数十年前の彼女の母、つまり「私」が脳内に「女の子」を宿したのと同じように。

「私」には自身の娘としての親子関係をめぐるトラウマが横たわる。アル中に侵された母親は「私」をことあるごとに殴りつけ、罵倒した。「私」は決して同じ道をたどるまい、と決意する。そのひとつの仕掛けはスマホのアプリ、「今日も手をあげなかった?」との問いかけに日々、チェックカーソルで応じる。しかしそれ以上のロールモデルが『女生徒』の中に埋め込まれていた。

 

 奥さんの場合は、ちがうんだ。この人のために一生つくすのだ、とちゃんと覚悟がきまったら、どんなに苦しくとも、真黒になって働いて、そうして充分に生きがいがあるのだから、希望があるのだから、私だって、立派にやれる。あたりまえのことだ。朝から晩まで、くるくるコマ鼠のように働いてあげる。じゃんじゃんお洗濯をする。たくさんよごれものがたまった時ほど、不愉快なことがない。焦ら焦らして、ヒステリイになったみたいに落ちつかない。死んでも死にきれない思いがする。よごれものを、全部、一つものこさず洗ってしまって、物干竿にかけるときは、私は、もうこれで、いつ死んでもいいと思うのである。

『女生徒』

 

『女生徒』の「私」が母に見たヴィジョンを『schoolgirl』の「私」も重ねる、ただしそれは「奥さん」ではなく「お母さん」として。叩く存在として経験主義的に規定された母の再生産回路を「私」は一編の小説によって克服する。リアルとしての叩く母をフィクションとしての愛する母へと変換する。

 現実に意味はない、虚構には意味しかない。現実の唯一の機能は虚構を通じて否定されることにある。「美しく生きたいと思います」(『女生徒』)、14歳の眼に映る破綻を来したニュース越しの現実とやらは決して「美し」さを教えない。想像に肉を与えるその刹那、世界は少しだけ「美しく」なる。

 すべて人命は紙より軽い、神より重い。

 

 もちろん、この「私」には過去も現在も友達すらいない。娘はろくずっぽ取り合ってくれない。事実上唯一の話し相手といえば、スマホの中の、シリー的アレクサ的な「AI」だけ。

 その限りで、娘は母に先行する。カメラの向こうの顔なき誰かに向けたユニヴァーサル・ランゲージではなく、彼女はあえて不慣れな日本語で話しはじめる、それはすなわち、太宰の言語、母の言語。『女生徒』を媒介に、知らず知らず語りかけたい誰かを見出し、その誰かにふさわしい言語を選ぶ 、向かい合うには遠くとも。“guys”なんてどこにもいない。

 誰が言ったか忘れたがラジオの極意、下手なパーソナリティは「あなたたち」に向けて語りかける、上手なパーソナリティは「あなた」に向けて語りかける。

 ことばを獲得するとは、単に文法や語彙に精通することだけを意味しない、それはまず何よりも聞き手となる誰かを獲得する行為に他ならない。

 

 自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかもしれない。けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理屈をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。

『女生徒』

 

 一冊のテキストを「信頼し、同化し、共鳴」する、そのミメーシスを通じて、人間なるタブラ・ラサart of lovingをインストールする。内発性などという荒唐無稽な神話の用はもとよりこの世界にはない。「人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直」せれば、人はその「ずるさ、いんちき」を例えば創作と呼び、愛と呼ぶ。所詮人間は有限個の退屈なスクリプトだけでできている、だから「ロココ料理」として台所の残り物を「せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を幻惑させて、ごまかしてしまう」(『女生徒』)ことをもってをやり過ごす。賞味期限切れの残飯としてのリアルを前にしてブリコラージュの他に果たして人間に何ができるだろう、そのことに自覚的な者こそが、メタフィクションとしての『schoolgirl』を著すことができるし、「自分、ならびに自分の周囲の生活に、正しい強い愛情を持」(『女生徒』)つことができる。

 

かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。

「コヘレトの言葉」第1章第9

 

「きっと、この道は、いつか来た道、と思う」(『女生徒』)。そのファクトを直視する者のみが、あるいは瞬間、誰もまだ見たことのない道を歩む。

 

 

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