時の流れに身をまかせ

 

「光栄です……」

 わたしの眼を見つめたテレサは小さな声でつぶやいた。彼女の人生を中国や台湾の歴史とからめて書かせてほしいと伝えたときの返答だった。そして意外なことを口にした。

「わたしのこれからの人生のテーマは中国と闘うことです」

 この言葉を聞いたとき、わたしは驚くとともに「やはり」と納得した。前回の取材のとき、テレサは「小さな暴力から大きな戦争になっていく。わたしは暴力は大嫌い。だから、平和のためならばなんでもしなくては思ってるんです」と語っていたからだ。テレサが「中国と闘う」という気持ちを率直に打ち明けたのは、おそらくこれが最初で最後のことだろう。こういう言葉が自然に出てくるまでは多くの葛藤があったはずだ。しかも自分の真情として密かに確信することと、それを他人に伝えることは意味合いがまったく違う。「中国と闘う」――テレサがこう語ったのは、中国と台湾をめぐる現代史の「きしみ」がひとりの女性の精神形成に色濃く反映していたことを示している。

 彼女は翌年になれば香港で長い時間を取って話をすると約束してくれた。だが、その取材は実現しなかった。半年あまりのちの9558日、テレサがタイのチェンマイで急死したからである。

 

 その逝去により、むしろ彼女の周辺はにわかに騒々しさを増す。

 台湾の元少将が「テレサ・テンは軍のスパイだった」と証言したことで、かねてより囁かれていたこの噂は一気に信憑性を得る。報道された遺体の写真の耳に注射痕が映り込んでいた、これを根拠とした暗殺説もまことしやかに浮上した。

 本書が導く結論をあえて言ってしまえば、これらは典型的なフェイクの域を超えない、しかし同時に、彼女のたどった数奇な運命を知るとき、むしろそちらの方に肩入れしたくもなる、そんな衝動をふと煽られる、それほどまでに劇的なのだ。

 あるときは、偽装パスポートを用いたことで身柄を入管に拘束される。またあるときは、中国の「精神汚染」キャンペーンの槍玉に挙げられ、「小さい資本主義」「歌詞がポルノ」と罵られる。ところが、文化開放路線下においては一転、共産党主導のコンサートが企画されるに至る。幻のその会場に予定されていたのは、奇しくも天安門広場だった。そして晩年、まるでジュディ・ガーランドの伝記映画を地で行くような最期を迎える。

 ことほどさように、エモーションを引き起こすための材料は十二分に与えられている、それなのに、本書の文体はストイックなまでにおよそ没入感を欠く。淡々と時系列をなぞる進行は、どこか箇条書きのようですらある。

 ドラマトゥルギーをこの伝記に期待するのならばいかにもその味気なさは否めない、にもかかわらず、ラストに至るに従って、本書がかくあらねばならなかった理由を知らされることとなる。

 ひとつはシンプルに彼女の人となりに由来する。「多くの人たちに話を聞いてきたが、テレサ・テンを悪くいう者はひとりもいなかった。テレサの人格のなせるわざである。その一方で相手が仕事の関係者であってもいつも距離を置いている彼女の姿が印象的だった」。そもそもからして、心許せる誰かを持てなかった彼女という素材を表現するに、感情移入という作法はいかにも選びづらい。

 二点目の理由に、まさに有田芳生の真骨頂が現れる。限られたヒントからもっともらしいストーリーを紡ぎ出す、それを行う人物がまさに本書に現れる。先のスパイ説を唱えた元少将である。彼はひとつとしてエビデンスを持たない、生前に接触があったわけでもない、台湾政府の仕切りで「蔣介石総統が亡くなったときに次ぐ規模」で催された葬儀の棺に「中華民国旗や国民党旗が掛けられたのを見て、生前の役割があったのだろうと判断した」、ただこれだけの憶測にかつての役職が妙な信憑性を与えてしまった、その結果に過ぎない。仮に本書が過剰な演出をもって営まれていたとするならば、それはまさしく同じ穴のむじなに堕さざるを得ない。

 そして、この検証を当人へのヒアリングを通じて詰めていくプロセス描写がいかにも水を得た魚、テキストが不意に躍動をはじめる。

 徹底的に聞き出して真実を浮き上がらせる、この当たり前の所作がやけにまぶしい。「空白の30年」に飼い馴らされていたことを否応なしに知らされる。