Angel of the Morning

 

 これまで一度も想像したことのない場所、どんな女性も冒険したことがない、海中深い場所にある洞窟への旅に、居心地の悪い恐怖とのランデブーに、あなたを連れて行こう。閉ざされた空間への恐怖、凍り付くような冷気が全身を覆い尽くすだろう。それでも、その恐怖という感覚のなかから、人間であることの意味を感じ取って欲しい。あなたも私と同じ、冒険家なのだから。……

 私にとって、見果てぬ夢の存在を認め、それを追い求めることは、恐怖を喜んで受け入れ、応じるという意味だ。地表についての科学、冒険、発見の要素が交わる洞窟ダイビングは、人間の限界を試すことでもある。

 私の仕事は多岐にわたる――ドキュメンタリー映像の撮影をし、未知の洞窟の地図を描き、科学的ミッションのためのデータとサンプルを集める一方で、自然の力に抗い、洞窟内部の狭い通路を案内し、水中で呼吸を可能にしてくれる複雑な生命維持装置をモニタリングしているのだ。私が生存できるかどうかは、恐れと自信のバランスを保てるかどうかにかかっている。思いも寄らぬ隙間に体が挟まって動けなくなったり、一寸先も見えないような泥の空間で迷ってしまったら、後退の決断を瞬時に下さなければならない。もし恐怖心によって我を忘れてしまうようなら、一気に呼吸が乱れ、酸素を消費すればするほど死に近づいていく。

 

 ある種の個人的な偏見と言ってしまえばそれまでなのだが、ダイバーという生業に従事する者というのは概ね、60年代ヒッピー・カルチャー的な残り香を漂わせるナチュラル志向のアッパー・テイストな人々なのだろうと漠然と決め込んでいた。

 だからこそと言うべきか、本書を覆い尽くすひたすらにダウナーな文体に少なからぬ当惑を誘われる、それはある面、深くへと沈む、というダイビングの性質そのままなのだけれども。

 プロミシング・ヤング・ウーマンとしてのキャリアパスを閉ざして、ダイバーの道へと進む、そもそものきっかけからしていかにも重い。強盗に襲われ、そのトラウマに蝕まれた末、彼女が自らに突きつけた選択肢は、「被害者のままで居続けるのか、それとも自分の体験を超える努力ができるのか」だった。回想録という性質が過剰にネガティブな予兆を漂わせている可能性は否めないが、ダイブを通じて出会ったパートナーとの夫婦仲の描写も当初からあまり芳しいものではない。

 そして何より、洞窟ダイビングからは死の気配がほとばしらずにはいない。「現代的な機器を使用した完璧な訓練を行ったとしても、毎年平均20名程度の人間が水中の地下トンネルで溺死する」。このデータは単に抽象的な数字としてのみ現れるものではない、本書はやがて幾名かの死を見送ることになる、筆者自身も「臨死体験」と呼ぶほどの危機にさらされる。

 数多リスクを熟知しながら、それでも彼女は冒険へと向かわずにはいられない。確かにそこには環境保全や生態系研究といった大義が潜まないこともない。しかし、彼女はまず何よりも自分のために進んでその恐怖を受け入れる。

 

 そのハイライトとなるシーンが序盤早々訪れる。母国を離れケイマン諸島でダイバーとしての歩みはじめたその頃に、とある噂を耳にする。とある内地の小さな沼が、地下通路で海に繋がっているとか、いないとか。そして数日、牛に引かれて絶好のチャンスがめぐって来る。

「小枝や葉っぱに覆われた臭う泥水のなかに急いで潜り込んだ。潜るとマスク越しには茶色く濁った水以外なにも見えなかったが、冷たい感覚が足元からじわじわ上がってくるのがわかった。これはサインだ。より深い場所にある水源から湧き上がっている冷たい水に違いない。……

 池に浮かんでいるゴミを両手で払いのけて、腰を落とし、足を頭の上に蹴り上げ、くるりと回転した。二回蹴ったところで、悪臭を放つ、生ぬるい水を通り抜けて、冷水の層に入り込んだ。……

 誰も到達したことのない場所に行くと考えると、指先から足の先までアドレナリンが勢いよく流れ、ぞくぞくするような緊張状態をもたらした。……岩の柱を手放すと、筋肉の緊張をほぐし、水面に向かって浮上した。酷く臭う水の層を抜け、大きく息を吸い込んで、『見つけたわよ!』と大声で叫んだ。初めての、私の海中洞窟だ」。

 汚濁をかき分け、やがて清水に洗われて、未知のサンクチュアリへと至る。苦痛に満ちた現生を逃れ、水による浄化を通じて生まれ変わる。このダイビングに仮託されたイメージとは、まさに洗礼の儀式に他ならない。

 

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川ヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスは、お答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

「マタイによる福音書313‐17

 

 あるいは筆者は、時に天の国すら垣間見る。

「浮氷の下ではオレンジ色のオキアミが躍っていた、魅惑的で多種多様なクラゲと、好奇心旺盛な二頭のカニクイアザラシが私たちの周りを取り囲むようにして泳いでいた。……ぐにゃぐにゃした小さなフットボールのような形をしたゼラチン状の生きものも見た。赤い体と同じ長さの繊毛が生えていて、人間のピンク色の唇ほどのサイズの口を開けると、その体に色とりどりの電流が流れる」。

 南極の流氷の下、全身の感覚を奪われた彼女が出会うこのカラフルな情景は、死のその瞬間に脳内麻薬が見せるという涅槃に咲く花の光彩に限りなく似る。

 しかし、この至福をもってさえも、洗礼は決して洗脳には似ない、死して土に還るまで彼女のトラウマは洗い流されることがない。

 一閃をもって吹き飛ばされるべきクズすぎる現実をめぐるロシアン・ルーレットとしての洞窟ダイビング、恐怖の報酬に憑かれた、ある中毒患者の記録を本書に見る。