台湾は若いと同時に、歴史が豊かに層をなした島でもあります。衝突でできた傷もあれば、融合が生んだ美しさもあります。本書を執筆した当初の動機は、母の死去をきっかけに、清朝時代、福建省泉州から台湾に渡来し、北台湾に定住して200年ほどになる台湾本省人家庭の我が一族の食と暮らしをふり返り、記録することでした。私の子ども時代の食卓とは、すなわち祖父母世代の食卓であり、台湾料理のひとつのサンプルといえるものです。比較的よく知られた旧都台南の料理とも少し異なり、戦後台湾に渡来した中国各省の料理とはさらに異なる系譜に属するものです。もし日本の読者の方々に、台湾の料理文化を理解するための新たな視点をお届けできたならば、とても嬉しく思います。
途中、思わずフリーズに誘われる箇所に出くわす。
米はとぎ汁が透明になるまで繰り返し洗い、2、30分間水に浸す。その後、完全に水を切ってから鍋に入れる。わが家は十分に歯ごたえがあるくらいのご飯が好みなので、1杯の米に1杯の水でよく、それ以上に水を増やさない。やわらかいご飯にするには、水を少し増やす。米を炊く手順は、まずふたをして、鍋を強火にかける。水が沸騰し、蒸気が鍋から噴き出したら、火加減を最小にして、あと10分から14分間煮続ける。土鍋や鋳鉄の鍋を使うのであれば、蒸気が弱まって、音が静かになり、炊けたご飯の良い香りがしてきたら、すぐに火を止める。そのプロセスに詩のような興趣がある。ガラス鍋ならもっと簡単だ。目で見て、水が蒸発し、米が光ったら、終了。ここからは、仮に強盗が入ってきて首にナイフを当てられても、ふたを取らずに死守し、20分間蒸すことだ。
はじめちょろちょろ中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、赤子泣いても蓋取るな。
書かれていることに概ね、この慣用的な言い回しを超えるものはない。たぶん日本人だからこのくだりが当たり前に過ぎることに面食らってしまっているわけではない。ジャポニカ米の炊き方として、台湾人が読んでも同様に普通に過ぎることに唖然とさせられているに違いない。
いや、常識でも何でもない、アレクシス・ド・トクヴィルの箴言そのまま、一国についてしか知らぬ者は実はその一国についても知らない。
本書に特有の、台湾をまなざすある種のエキゾティズム的な視線は、ひとつにはイギリスで大学生活を過ごした筆者の経験が寄与している。「国民1人当たりが一生に消費するサンドイッチの数は平均1万8000個」の国でひとり滷肉をこしらえた、そんな経験から本書は培われる。スーパーに並ぶ豚肉の匂いのクセも強ければ、醤油の銘柄も自国ではなじみのないもので、米にしてもまるで別の何か、そんな「家のものとは雲泥の差」の懐かしの味を食らったその経験が、当たり前のものが実は当たり前でも何でもないことを舌で知ったその経験が、筆者に本書を書かせずにはいなかった。
そしてもうひとつ、さらに大きなファクターが母の死だった。癌に蝕まれて日々やせ衰えていく中で、「人は終点まで行くと、後ろをふり返るものなのか。一生の間、豊かな食べ物に恵まれていた母なのに、最期の日々にはむしろ素朴で、子どもの頃口にしたような味を懐かしがった」。そんな記憶の味が、台湾の街角からも日々失われゆく。世の中で切仔麺の名で出回るものといえば専ら、「スープが薄くて、どこが美味しいのかわからない」、そんな代物に地元蘆州の「まともな麺……美味しいスープ……歯ごたえのいいゆで肉」の切仔麺がいつ駆逐されぬとも限らない。「世の中は変わった……今もし、急にさとうきびがかじりたくなったとして、わざわざ探しに行っても、見つかるとは限らない。時間は忍び足の泥棒だ。誰も気づかない間に、こんなふうにして、誰もがさとうきびを噛んでいた社会を、探してもさとうきびが見つからない社会に変えてしまうのだから」。
この一連の追憶は、おいしかったあの味がもう食べられないという以上の含意を持つ。
「子ども時代、米苔目はいつも祖母と一緒の時に食べた。大きくなってからは、自分なりの好みができて、長年食べなかった。太い麺類は一律拒絶したのである。……私からするとみんな同類で、味がないのだった。今になってまた米苔目を探そうとするのも、味が恋しいのではなくて、子ども時代が恋しいのである」。
たぶん、本書に現れる料理も実食してみればおそらくはそこまで大したものではない。米で作った麺にかき氷を乗せて緑豆の餡をかけただけの味なんてたかが知れている、「インターネット時代になり、生活の中にまで排気ガスが吹き込むような日々にあって」、スイーツと呼ぶのも微妙なこの米苔目がまさかインスタ映えすることもない。芋棗についていくらページを重ねて力説されたところで、つまりは砂糖で甘く仕上げてペーストにしたタロイモのコロッケもしくはドーナツでしかない。あるかどうかも知らないけれど、冷凍食品のお取り寄せをしたところでたぶんどうという味がすることもない。しかし筆者にとっては、父方の祖母との記憶をつなぐ、代え難き正月料理なのである。
「今はSNS上で簡単に何百何千の友だちができるのだと言われて、うっかり信じかねない。実際のところは、ちょっと考えてみれば、ありえないとわかるはずだ。気楽に、一緒に、麺を一杯食べられる相手など、何百何千のうち、本当は何人もいないと」。
煎じ詰めれば、このテキストは「麺」の話などしていない、ほんの「何人」かの、ざっかけない、かけがえのない誰かについて語り続ける。
世の中には、スコアにならない味がある。