「あまりに完璧すぎるんじゃないか?」という素朴な疑問が、雪舟の人生を調べ始めたきっかけだった。たとえば新聞の特集記事に見られる次のような語り口。
「日本水墨画の始祖、画聖とたたえあれた雪舟等楊。中国に渡り、日本各地を漂泊し、禅の世界を逍遥した八十七歳の生涯は、水墨画完成のための長い旅路であった」……
語られるのは、ひたすら水墨画と禅の道を追求した漂泊の画僧の姿である。……
たしかに絵は、室町時代の画家のなかでは抜きん出て個性的で、「自分」の出るタイプではある。しかし、この人生のイメージは本当なのだろうか? 画家がいまのような自由なアーティストではなかった頃である。しかも雪舟が頭角を現してくるのは、全国の大名を巻き込んだ「応仁の乱」の後、世が戦国へと向かうなかである。そんな時代のコンテクストに当てはめてみると、疑問がいくつも浮かんでくる。……
雪舟は、室町時代の画僧にしては珍しく、世の中=「歴史」に関わった人である。この小さな本ではその実像を、彼の生きた時代と場を見ることであぶり出し、激動の時代を生き抜いた画僧の人生を語ってみたい。どうしても歴史の話が多くなり、「画家の本なのに」といわれそうだが、そこはご容赦頂きたい。彼の絵の豊かなレパートリーは、そんな人生のなかでこそ生まれ得たのだと思うから。
いきなり時代をはるか下って、明治期の話をしてみる。
事実上の東京藝大の前身、東京美術学校の発足は1887年のこと、文部省の管轄の下、フェノロサと岡倉天心によって立ち上げられたこの機関に先行して、欧化政策の一環として創設され、そして間もなく廃止の憂き目にあった、幻のスクールが日本にはあった。
工部美術学校という。その名の通り、仕切ったのは工部省、その一点からしても企図は明らかだろう。時の政府が想定していた主要目的はアート市場やナショナル・アイデンティティではなく、専ら各種産業向けの技術育成だった。
雪舟のキャリアにふとそんなことが頭を過らずにいない。
48歳にして海を渡り大陸を踏む。今日の人々がふらっと留学に出るのとは訳が違う。接岸までの片道ざっと1週間、一度に許された遣明使の数は最大で300にすぎない。貿易という国益を賭けた大事業である、その限られた座席が水墨画の道の探求などという風流事に割り振られていた可能性を想定する方がどうかしている。
果たしてパトロンの大内氏から雪舟に与えられた任務は「随行カメラマン」だった。
こうしたキャリアパスに鑑みれば、「天橋立図」にも単に風景画という以上の何かが期されていた、と見るのがむしろ妥当というもの。
しかもこのランドスケープ、「実際にこのような風景が見える場所は地上にはない。……似たような風景を見ようと思えば、高度500~900メートルほどの上空に浮かぶしかないのである」。本書の言及にもある通り、狩野永徳の「洛中洛外図」をつい連想したくもなる。
隠密スパイもの、無論それはそれで一冊のテキストとして成立してはいる。しかし本書の驚くべきは、その議論をさらに発展させて、見事な絵解きをも開いてみせた点にある。
単に写実に留まらない、配された建物に仮託された意味をめぐる議論はここには引用しない。宗教や同時代を総動員したメインディッシュはあくまで本書に委ねられねばならない。
このくだり、個人的な雑感として言えば、過剰な読解力の発動と思わないことはない。総じて言えば、テキスト全体がいわば状況証拠の積み重ねで構成されており、「歴史」のクリティークとしてはラフなデッサンに過ぎない気がしないこともない。
でも、本書はこれでいい。嘘偽りというコードを逸脱しない限りにおいて、各人がそのロジックを発動させてなぜ悪い? こんな楽しみ方をまさか戦国の世の雪舟当人は想定しない。時に「歴史」のルートを外れて、作品が不意に語り出す。明治の混乱がひとまずの平静をもって技術を美術として再編したように、平時だからこそ、その嗜みは許される。