さらばベルリン

 

 そこは19457月のベルリン、主人公の「私」ことアウグステ・ニッケルはアメリカ占領軍の食堂に職を得て、日々身を粉にして働いている。

「これまでドイツ人――というよりベルリン人は、アメリカが好きだった。おしゃれでお金持ちで、食べ物が豊かで、音楽が素敵で、自由で、憧れていた。みんな「フランスやソ連は嫌なやつらでも、アメリカの好青年たちはドイツを悪いようにはしないはずだ」と期待していた。

 私もそうだ。私は幼い頃からアメリカの小説やミッキーマウスが好きだった。隠れてでも英語を勉強した。だからアメリカがやって来た時、これで平和になると信じたし、すぐに彼らの従業員になりたいと志願した。

 なのに、今は失望ばかりしている」。

 そんなある日、アメリカの憲兵隊が彼女の住居を訪れて身柄を拘束、間もなくソ連側の警察へと引き渡される。心当たりがないではない、ほんの数か月前のまだ戦時下での出来事、彼女を凌辱した赤軍兵を銃殺した廉での取り調べか、と思う。

 しかし、そこで遭遇したのはかつての恩人の遺体、青酸カリが混入したアメリカ製歯磨き粉による毒殺だという。捜査にあたるソ連人大尉の見立てでは、ナチスの残党、通称「人狼」による犯行、そして浮上したのが、かれこれ15年ほど前まで被疑者が養子として預かっていた男性。彼女に課されたミッションは彼の消息を突き止めること、手がかりといえばその名前と幼き日の写真に刻まれた三連星のほくろ、淡い情報に従えば、どうやら彼はプロパガンダ映画のスタジオがあったベルリン近郊バーベルスベルクにいたらしい。かくして彼女は相方として宛がわれたユダヤ人ファイビッシュカフカとともにその地へ向かう。

 

 この道中にアウグステと出くわす人物が、次から次へと彼らにとってのハイライトとも言うべき瞬間――つまり、それは戦中ドイツ史のダイジェスト――をめぐる回想を告げては、そして去っていく。さらにそこに「幕間」として差し挟まれるのが彼女の履歴、当然にそのいちいちがナチスを反映せずにはいない。

 事件はあくまでこれらのエピソードを引き出すためのマクガフィンにすぎない、いや、マクガフィンですらない、そんな風に思いかけていた。しかし終盤、種明かしの局面に至るや、絡まる糸が鮮やかにほどかれていく。果たして読者に謎解きのいとまや手がかりが与えられていたか、という点にはいささかの疑問符がつきはする、しかし幾重にもちりばめられたパズルが組み合わさっていく快感は確かに走る。

 

 ミステリーという側面については、まあ、いいんじゃない、とは思う、ただし、本書はナチスという文学史の十八番を勇敢にも舞台に選び主題化している。既に先行作品が山と存在するテーマにあえて突っ込んでいくというのだから、比較参照するなという方が無理筋だろう。

 頭をかすめた作品、例えばベルンハルト・シュリンク『朗読者』、後にケイト・ウィンスレット主演『愛を読むひと』として映画化されたこの小説のヒロインは文盲の元ナチス看守の女性。彼女に向かい合う元少年にとっての、ナチスを克服し未来を拓くものとしての文字は、同時にあまりに苦い副反応を伴わずにはいなかった。彼女にとって文字を知るプロセスとはすなわち、自らの過去の罪を知るプロセス、自らに罰を与えるプロセスに他ならなかった。

 あるいはAnthony Doerr,All the Light We Cannot See(邦訳アンソニー・ドーア『すべての見えない光』)の場合、後の敵国のラジオ番組を通じて自然科学への興味を植えつけられた少年は長じてユーゲントのトップ・プロスペクトに選ばれるも、埋め込まれた外国語ゆえのためらいか、もうひとつ自らの置かれた立場に没入しきれない。そしてこの作品にもやはり盲目の少女が登場する。父によって作られた街のミニチュア・フィギュアを娘は指を通じてなぞることで、その立体画像、言い換えれば現実とはどこか違うもうひとつの世界を脳裏に描き出す。

 ここに、『ベルリンは晴れているか』が内包するある種の違和感が現れずにいない。アウグステは一冊のテキストを契機に英語に興味を抱き、さらに後に隣人の家庭教師を通じてさらなるスキルを授けられる。しかしこの小説において、英語はあくまで彼女の雇用契約を正当化するための説明関数を超えない。ナチスの積極的支持者にならずにいられたというだけならば、両親や周囲の存在だけで十二分に事足りる。別なる言語は、彼女に別なる未来を開くハッチを与えなかった。

「遠い国[アメリカ]で書かれた本は、暴力的で、自由で、無邪気で、汚れていて、哀しみと未来があった。民族や国家というくくりではなく、たったひとりの人物に寄り添う物語は、アウグステの心をどうしようもなく揺さぶった。まるで本物の友人とようやく出会えた気分だった。……

 物語は裏切らない」。

 そう、「物語は裏切らない」、現実は裏切るけれど。

 ところが、本書は終始その現実と寄り添ってしまう、このクズで浅はかで惨めでみすぼらしくて退屈なオワコンとしての現実と。結果何が起きるか。登場人物はことごとくが「過去」と直面する末に、その愚かしい再生産ループとしての死を重ねることしかできない。彼らには、逝き方の話はできても、生き方の話はできない。

 先行作品とは異なるからいけないなどと唱えているわけではない。「物語は裏切らない」、そのテーゼを当の本書が裏切っている、ここまであからさまに命題を打ち出すでもない他の作品においては論じられているにもかかわらず。その事態はまずいのではなかろうか、と訴えているに過ぎない。

 

 現実に意味はない、虚構には意味しかない。

 誰が言ったか、狂気とは、同じプロセスをたどりながら、ただし別の帰結を望むこと。帰結を変えたければ、「物語」を通じてプロセスそのものを書き換えなければならない。現実を見れば一目瞭然、人の命なんていくらでも余っている、だからこそ、自然権なる不自然極まる「物語」にあえて没入することで、現実のどこにもない人間の尊厳なる何ものかの居場所を担保する。すべて他者に信頼や、ましてや信仰に値するものなど何一つない、ゆえに憲法意思がごとき共同幻想の「物語」を信じる。すべて人命は紙より軽い。現実に1ミリの存在意義を認める限り、例えばかつてナチスが見せたその愚かしきクライマックスは寸分違わず再生される。だから、死の他にいかなるリソースの配分にもなじまない知性なきサルどもを一匹残らず屠殺して、「物語」を通じて世界を再起動する。

 語るとはすなわち騙ること、一枚のタッチパネルにすら劣る平板なこの現実の唯一の機能は、かたりを通じて全否定されることにある。

 だからこそ人間はことばを必要とする。

 

 

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