らくだ

 

 これは今から40年以上前の昭和531978)年5月に当時の落語協会前会長だった三遊亭円生が、古今亭志ん朝三遊亭円楽立川談志の若手幹部を連れて新団体「三遊協会」の設立を図り、なんと落語協会が、真っぷたつに分裂するという全く予想だにしなかった事件が起こった時のことを描いたものだ。

 それは円丈が、苦節13年やっとなんとか6人抜きで真打昇進を果たし、50日間の円丈襲名披露興行も無事終わった途端の出来事だった。そして円丈は、師匠・円生に従って嫌々ながら三遊協会へ。

 しかも席亭サイドは、席亭会議を開き、新しく出来た三遊協会とは、契約しないことになった。つまり、寄席との契約を打ち切られた新協会は出る寄席がなくなった。なんと50日間、真打披露興行で寄席を廻った円丈は、廻り終わった日から、出る寄席がない。ウソ! そんな話ってアリ? 念願の真打になってこれから寄席で大活躍と思ったら、なんと円丈は、どこの寄席にも出られなくなっていた。ウソだろ?

 

 先代圓楽許すまじ。

 ある面で、本書を要約したければ、この一言で用は足りる。

 テキストの書き口に歌丸‐楽太郎のブックの匂いは欠片もない。終始表明され続けるのは、軽蔑と、軽蔑と、そして軽蔑。

「普通、噺家の社会では相手が先輩だと必ず何トカ兄サンと呼ぶ。ところが、彼を呼ぶときだけ、何故か“円楽サン”と呼んだ。(中略)

 何トカ兄さんという言い方の中には、親しみと先輩としての尊敬の意味が込められてる。結局、俺達兄弟弟子は、彼に親しみも尊敬も感じなかったのだろう」。

 もっともこれしきの人間関係の齟齬のひとつやふたつは誰しもが経験していることだろう。そんな相手を処世術として表面的にやり過ごす仕方にしても、酒で発散するその仕方にしても、世の大半の人間はインストールしている。

 そんな市井と筆者の間に相違があるとすればそれはただ一点、“圓楽サン”と筆者の間に、三遊亭圓生という類稀なるややこしいハブが内包されていることにある。

 単に馬が合わない兄弟子への恨み節だけならば、筆者にこのテキストを書き通させるほどの熱量を催させることもなかっただろう。寄席という場で評価を得る機会すら与えられないという苦しみだけでもおそらくは足りない。協会分裂騒動をめぐる裏事情を期待する世間に向けてのものならば、いかようにも別のアプローチは選べたことだろう。

 しかし、何がかくも激烈に筆を運ばせたかといって、それは圓生という父をめぐる愛情獲得競争に敗れたという屈辱感に他ならない。紛れもなく本書は、亡き師に捧げる歪み切ったラブレターなのである。

 

 その情愛が機能不全に追い込まれる、決定的なシーンがやがて現れる。

 協会を取るか、師匠を取るか、そう詰められて「出来れば戻りたいと思いまして」と本心を明かす。圓生から返ってきた反応は予想外のものだった。

 その時の円生の顔は阿修羅のように見えた。この恩知らず、義理知らずの罵声をただ黙って聞いているのは辛いことだった。それは心の拷問だ。(中略)

 俺は、心のどこかで円生を親父のように思っていた。その親父から今、罵声を浴びせられている。(中略)

 もうこれ以上聞いたら俺の心は死んでしまう。今俺が一番やらなければいけないことは、あの二人の口を止めることだ。(中略)

 罵声を浴びながら戻り、正座をしてから畳に両手をついて、

「いろいろ、わがままなことを言って申し訳ありませんでした……。私も一緒に出たいと思います」

 このセリフを言い終わった時、俺の目には、うっすらと涙が滲んでいた。

 文庫版に寄せたあとがきで筆者は回顧する。今にして思えば、この日に受けた「心の拷問」を癒すために本書は著されたのだ、と、「『御乱心』は、円丈の心の薬だったのだ」、と。

「心が治り、円丈は、三遊亭が大好きで、今も円生を尊敬している。正しく評価できる。入門したことを誇りに思っている」。もとより圓楽など一顧だにも値しない。

 

「俺は、円生を憎んではいない。円生を恨みもしない。ただ円生を許しもしない」。

 本書はこの名文を噛み締めるためにある。

 

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