Wild Thing

 

 

 この本は僕にとって、はじめての著作だった。

 昭和641989)年最後の週に記者としてデビューしてから、平成81996)年の夏に『週刊プロレス』編集部を去るまでの物語。つまり、平成初期という独特な時代の空気感を映しこんだ私的なドキュメントということになる。(中略)

 週プロという雑誌は「手作り」だった。

 一応、僕は「記者」と呼ばれていたが、たしかに試合会場に行って取材もするけれど、自分で写真を選び、ページを構成し、さらに見出しからキャッチまですべて考えた上で、最後の最後にようやく試合の記事を書く。それを週末になると試合が終わってから、翌日の朝までにすべてを完了させなくてはいけない。記者であり、編集者であり、コピーライターであり、ライターでもあった。

 この作業を担当ページに関しては、すべてひとりでやっていたわけで、こんなに刺激的な仕事はない。

 

「ファン時代に週プロの熱心な読者だったので『週プロとは何か?』ということを深く理解していたし、週プロで働けることにこの上ない喜びを覚えていた。だから、休みがなくても苦にならなかったし、読者がどんな記事を求めているかも敏感に察知できた」。

 そのジャンルの文法に精通したオタクたちがいよいよインサイダーとして業界を牽引していく、バブルの盛りに各所で起きはじめた現象がプロレス界隈においても発生した。折りしも当時、地上波放送での人気は斜陽、ただし固定のファン層は確保している、結果、「テレビとともに発展してきたプロレスというジャンルは、活字の世界を中心に回っていくという、日本上陸以来、初の状況下に置かれることになる」。そしていつしか筆者は「アングルや試合展開の深部にまで口を挟むようになっていた」。

 となれば誰しもが仕組まれたブックの裏側をめぐる暴露ものを期待したくなるところだろう、それはあたかも各スポーツにおけるユーチューバーの、ただただ過去を食いつぶすだけの昔話に一定の需要があるように。

 ところが本書は、その予定調和の横紙を突き破る。

 

 ダーレン・アロノフスキーの『レスラー』は、己が愚かさを罰するようにリングに上がり自らの肉体を傷つける落日のミッキー・ロークにパッション・プレイを投影することでカタルシスを演出する。といってその実、贖罪のロジックは男に何らの救済をも与えない。フェローシップ、ホモ・ソーシャル、己のアイデンティティをプロレスの外側にひとつとして見出すことが出来ない、だから男は自ら進んで血の杯を引き受ける。

 そうして本書の「選んだ者」たちもまた、我が身を削り舞台に立つ。

 例えばあるレスラーは「20万円ちょっとの薄給で(中略)命を懸けたデスマッチを闘いながら、健康保険は親の扶養家族扱いだった」。あるレスラーの場合、「超人的な空中殺法で大人気を博すが『本職』はマクドナルドの深夜清掃員」。ファイヤー・デスマッチで重度の火傷を負ったレスラーは、仰向けになることすらできないただれ切った背中で、ただ欠場のあいさつのためだけにフライトに耐えた。男は絶叫した。「ここで俺が休んだら、W★INGはどうなっちゃうんですか? 絶対に明日はやってきませんよ。俺は死ななかった。だったら生き続けるしかないじゃないですか!」

 ウェルメイドなブックもギミックもそこにはなかった、あったのはただ不条理と不条理と、そして不条理。もうひとりの「僕」がそこにいた。

 やがて筆者は、その不条理劇の列に自らを連ねる。ターザン山本なる山森もしくは村岡の傘下で男は己に諭し聞かせる。「選ばれし者なんかじゃないのだ。あらゆる欲を捨てて、週プロで記事を書けるという権利のみを『選んだ者』なのだ。すべてわかった上でつらい仕事をやっている」。共感ゆえに通じる情景がそこにある。

 

 なぜ、という問いかけがことごとく封殺される「選んだ者」たちの世界にあって、一際まばゆい光芒を放つ男がいる。その名を大仁田厚という。

 

 初取材の折のこと、まだ学生バイトに過ぎなかった筆者は、自身の団体を立ち上げて間もない大仁田を追って熊本の僻地を訪れる。試合前、記者数名を引き連れて喫茶店に入り、いざ会計の時のこと、

 ここからゲリラ的な大仁田劇場の幕が切って落とされるのだ。

「すいません、領収書もらえますか?」

「お宛名はどうしましょうか」

「エフ・エム・ダブリュー!」

 お店にいるすべての客に聞こえんばかりの大声で、大仁田は団体名を叫んだ。みんな驚いてレジの前に立っている大仁田をのぞきこむ。

「えっ、えっ、FMWですね?」

「ハイ、FMWです。プロレスの団体なんですよ。でもね、馬場さんや猪木さんのところとは違って、空手とか柔道とかいろんな格闘技の選手が出るんです。そしてメインイベントは反則なんでもアリのデスマッチ! 今日、そこにある小国ドームで試合があるので見にきてくださいよ。お願いします!」

 喫茶店の中には10人もいなかった。それなのに、ここまでの熱弁をふるってこの日の興業の宣伝をするのだから驚いた。トップの大仁田がここまでの危機感をもっていたからこそ、FMWはインディーの先駆者になるのだろうが、こんなパフォーマンス、ちょっとでもプライドがあったらできるものではない。

 

 〔大仁田のインタビューの場合、〕最初に写真を撮ったあと、3秒で取材は終わる。

「デスマッチ、ヒューマニズム、生きる。この3つのキーワードで話を膨らませてよ。じゃあね」

 落語でいうところの三題噺みたいなもので、僕は出されたお題をもとに3ページなり4ページなりのロングインタビューを創作しなくてはいけなかった。(中略)取材した夜は「俺はデスマッチで生きるんじゃー!」などと口走りながら、大仁田厚になりきって記事を書いていた。これが驚くほど速く、そして面白い内容になる。

 

 大仁田ととある約束をしていた。

 子供の頃、全日本の会場で大仁田にサインを求めたら「おう、あとでな」と言ったのに、最後までしてくれなかった。(中略)だから、この仕事を始めるまでは僕はアンチ大仁田だった。そんなことをちょろっと書いたら、大仁田は引退試合の前に、あのとき約束したサインを書くと言ってくれたのだ。(中略)

 控室を訪れると大仁田は「おう、あとでな」と子供の頃と同じ言葉で僕を制した。

「あとでこいよ。メインが始まる前に。プロレスラー、大仁田厚、最後のサインを書いてやるからよぉ……」

(中略)

 引退試合15分前、僕はふたたび大仁田の控室のドアをノックした。

 僕が手にしていた色紙を手にとってサインを書く大仁田。「おう、あとでな」からずいぶん待たされたものだ。まさか20年以上もおあずけを食らうとは思ってもみなかった。大仁田がサインを書くのを見ながら、純真なプロレスファンだった子供時代の自分と、プロレス記者になった自分が繋がった気がした。

 だが大仁田の様子がおかしい。肩が震えている。泣いていたのだ。

「試合前だからよぉ、泣くわけにはいかねぇのによぉ……」

 僕も落涙しそうになってしまったが、ここで泣いたら大仁田はもっと泣くに違いない。目を合わせないようにして控室を出ようとする大仁田は「小島ちゃん、最後まで見届けてくれよな」と涙声で言った。僕は目を真っ赤にしてリングサイドの記者席へと走った。