黄金狂時代

 

 メニューを見れば、ランチはカレーとナンのセットで800円なり。マトンかチキンかシーフードか、10種類くらいから選べるようになっている。カレーを2つ付ければ950円だ。(中略)

 ネパール人経営のインド料理店に行くと、だいたいこのスタイルのメニューが、まるでテンプレートのように出てくるのはナゼか。カレー屋経営をプロデュースするコンサルタントのような存在がいるのだろうか、と思うほどの似通い方なのだ。(中略)

 この手の「ネパール人経営のインド料理店」が、いまや日本全国、津々浦々に大増殖している。日本人のエスニックファンの間では「インネパ」とも呼ばれるようになり、いまや外食のひとつのジャンルを形成しているとさえいえるのかもしれない。これだけ拡大したのは、どうしてなのだろう。

 そもそも、ネパール人はなぜ、インド料理をつくっているのか。インドはネパールのすぐ南に隣接する大国だが、両国の食文化はずいぶんと違う。ネパール料理ではなく、あえてインドカレーとナンにこだわる理由もわからない。そして彼らはどうして日本に来て、どんな暮らしをしているのか……。

 あれもこれも気になるのである。

 

「インネパ」の謎を訪ねて歩くこの旅の終着点は、バグルンだった。話を聞いて回った人物の多くがネパール中部のこのエリアの出身者だったことから、悪路をかき分けて果たしてたどり着いた約束のその場所は、「昔話のような山村」だった。「自分たちの食べるぶんだけ野菜や米をつくって家畜を飼い、村全体で助け合ってなんとか生きてきた」そんな村の暮らしは、しかしもうそう長続きはしない。その光景に筆者は驚愕と当惑を隠せない、「歩いていて出会う人々は、女性と老人、子供ばかりなのである」。かつてならば半ば自給自足の農業経済を担っていただろう若年壮年の男性たちは、皆こぞって外国へと出稼ぎに向かう。

「みんなiPhone14が欲しいんですよ」。

 資本主義のポンプ作用の必然がここでも具現する。農村から都市へ、そしてその道は海をまたいでひたすら延びる――賃金の高低によって規定されるこの過疎化運動が中近東の小国を呑み込んで既に久しい。

 各国からの出稼ぎによって得られた金は、ネパールにも少なからず仕送りとして流れ込んではくる。1人当たりの月額GDP100ドルの国内では到底望めないほどのゲインではある。しかし、もはや国策とすら呼んで差し支えないこのマネーが、自国の経済発展に活用されることはほとんどない。なにせその原資が流出した労働力に由来している以上、構造的に人手不足が宿命づけられたこの国で投資先としての新しい産業が育つ見通しなど得ようがない。唯一、「土地への投資はさかんなようで、カトマンズやポカラでは地価が急激に騰がっている。海外からの送金を元手に土地を買い、利回りで稼ぐ人が増えているという。銀行も『土地への投資なら』とお金を貸すのだそうだ。結果、都市部の地価が高騰していく。どこかで聞いたような話だった」。

 この活動がもたらす外部不経済は、これだけにとどまらない。

 祖父母や親類に任せて両親は国外へ出稼ぎ、そうしてできあがった金だけはある、金しかない、愛情を知らない子供たちは、しばしば非行へと走る。愛され方を知らない、つまり自らの愛し方を知らない彼らは、なまじ購買力があるだけに、ドラッグやアルコールに向かうことができてしまう。

 グローバライゼーションのひずみ。あまりに陳腐な言い回しには違いない、しかし本書の光景を説明するに、これほどにふさわしいフレーズを他に見つけることができない。

 

 実はそのことを最も端的に表しているのが、「インネパ」のあのテンプレメニューなのかもしれない。

 モータリゼーションがもたらしたあまりに皮肉な世界がある。過去とは比較にならぬほどの移動の自由を確保した人々が、未知のローカルを訪れて、その土地でしか味わうことのできない食べ物を口にする、そんな旅行の醍醐味は、ところがリアルでは紀行文の中にしか転がっていなかった。何が出てくるか分からない、当たり外れも分からない、そんなギャンブルに打って出るほど、ツーリストたちは勇敢ではなかった。彼らは旅先においてすら、ロードサイドのマクドナルドやケンタッキーを求めずにはいられなかった、それは単に津々浦々にあっても均質性が保証されているというだけの理由で。たとえローカルなレストランに入るにしても、何かしらのお墨付き、例えばタイヤ・メーカーの発行するグルメガイド、がなければ彼らは近寄ろうとすらしない。

 おそらくはこれと類似する現象が「インネパ」でも起きた。どの扉をくぐってもだいたい同じ味が出てくるという経験は、本書が明らかにするような作り手側の文脈のみには必ずしも由来しない。すべて需要は供給に先立つ、あくまで消費者サイドがそのお約束を選好した結果の反映に他ならない。すべて人口に膾炙するとはコピペ化すること、昭和の町中華におけるテンプレ・ラーメン、テンプレ・餃子、テンプレ・チャーハンに限りなく似て、まるでチェーン、フランチャイズのようだからこそ、「インネパ」は一定の集客を実現している。甘ったるいナンに甘ったるいソース、ギトギトに滲んだ油――祖国の味とは似ても似つかぬそのカレーとやらを厨房の人々がうまいと思っているかなど、悲しいほどに誰も問うてなどくれない。糖質、脂質というエネルギー源に設定された報酬系インセンティヴに消費者たちは現に誘導されて「インネパ」を目指す、そのニーズを満たすためにはむしろ規格品でなければならないのである、そこにひねりはいらない。吉野家だろうが松屋だろうがすき家だろうが、牛丼チェーンに入ればだいたい相場通りの味がするのと全く同じ仕方で――ブラインド・テストによる限り、こだわりをしばしば口にする消費者たちがそれぞれの特性を判別することは決してない――、どこの「インネパ」を訪ねようとも、予め分かり切った味がする、味しかしない、この工業製品性を獲得できたがゆえこそ今日まで彼らは生き残ることができている。

 

 まるで『モダン・タイムス』を地で行くような「インネパ」の光景を筆者は拾い集める。

 疎外と呼ぶことにもはやいかなるためらいを覚える必要もないだろうその歪みは、まず何よりも子どもたちを直撃していた。「この国には稼ぎに来た、豊かになりに来たのだという強烈な意識が、かえって子供たちの心をさみしく貧しいものにしてしまってい」た。彼らの中には、「自分の将来が明るいとは思えない。人生をあきらめている。そう話す子供たちもい」る。

 コミュニケーションの不全をコミュニケーションで癒す、そんな絶望の淵にあった彼らを救い出したのが、例えば夜間中学だった。その卒業生のひとりは、教職員たちが単に言語や科目だけではなく、「日本の常識やライフスタイル、人生そのものを教えてくれた」ことを述懐する。そうして日本で人と携わるためのスキルを身につけた彼は、今や複数店舗のオーナーを務めている、それも「既存のテンプレ的『インネパ』ではなく、日本人の気持ちを取り入れ、大きく発展させた店」の。その差別化を可能にしたのは、顧客たちとの会話だった。夜間学校が、コミュニケーションが、彼をここまで後押しした。

 コンビニのフランチャイズが現に発生と消滅を日々繰り返しているように、規格品を提供できるということは、必ずしも経済的成功を保証しない。あるネパール人コンサルタントが証言することには、「うまくいっている店は地域の日本人としっかりつながっているんです」。フラット化する社会にあってフラット化しないことこそが彼らに生存戦略を担保する。幼い子どもを抱える筆者の知人女性は証言する。「子供が泣いても怒らないし、話を聞いてくれる。ほっとするんです。だからママ友たちでときどき子づれでネパール人の店に行くんです。親同士が話してるときは子供の面倒を見てくれたりするし」。そこでは、落ち着きのなさがデフォルトの子どもたちがサイゼリヤにおけるようにつまみ出されることは決してない、「店主やコックの子供たちだって店内で遊んでいたり宿題をやってたりする(中略)おおらかにしてテキトーなアジアの空気感」が漂う。

 コミュニケーションなき世界の中でコミュニケーションを通じて新たな世界を切り拓く、ファストフード的であってファストフード的でない、そんな未来の隘路が「インネパ」にはある。

 

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