このゴミは収集できません

 

「他人に捨てられたんじゃなく、私に捨てられたんだ」。

 この短編集をめくっていく中で、序盤から妙に引っかかるモチーフがあった。

「壁」において主人公が暮らす住まいの裏路地は、「ぎょっとするほど散らかっていた。……彼女は中に弁当のスチレン容器や鶏や魚の骨や卵の殻や米飯やパンやひとかたまりになった料理や釘や服やレンガやシャベルやカセットテープやCDやちりれんげやガラス瓶や枕や靴やタイヤや雑誌や新聞やゴミや蠅を目にした」。「男の子のように黒い」においても、「蘇愛は鞄をひっくり返して教科書を古い新聞紙の上に落とすと、別の新聞紙の束を上に乗せた。歴史の教科書、マレー語の教科書、数学の教科書はすっかり見えなくなった。明日。明後日。しあさって。もっとたくさん、たくさんの古新聞や古雑誌が届いて、こんな教科書を埋めてしまって、もう誰も蘇愛の本を見ることはなくなる」。夫に先立たれた「箱」の主人公がひとり暮らす住居兼店舗に漂うのは「干し草のような香り」、その出どころである木箱の中身の「黒い物体」が何なのかは彼女にもよく分からない。知人が差し入れてくれる品物も「冷蔵庫に入れたまま溜まってゆく一方で……からからに乾いたトマトや大根、白菜や豆腐がぎっしり詰まっていた」。

 さらに露骨なのが、「夏のつむじ風」である。ジェットコースターから降りてきた夫とふたりの子どもから主人公である「彼女は吐瀉物でいっぱいの袋を3つ受け取ったが、気持ち悪く思わないわけではなかった」。原文のニュアンスにあたらぬ者が翻訳についてどうこう述べることの無意味さは知りつつも、そんな紙袋を押しつけられているというのに、この人物は気持ち悪いと言い切らない。いやたぶん、わざわざことばにせずとも本来ならば言外にその不快感は自ずと読み手に想起されているはずなのである。しかしこのテキストにおいては「気持ち悪く思わないわけではなかった」という表現が選ばれる。

 同工異曲の必然か、登場人物のことごとくがこうして何かしらの仕方でいわばプチ・ゴミ屋敷の住人を構成する。さりとて、「箱」はともかくも、そのこと自体がメイン・テーマを構成しているようにも見えない。過剰なまでの自己主張の陰影を帯びた小道具としてのこれらが、果たして何を示唆しているのか、分からないといえば分からない。セルフ・ネグレクトの象徴といえばその通りで、でもそれ以上の何かともそれ未満の何かとも断言できず、とにかくやけに引っかかる。

 

 その正体の一端を解く鍵は、表題作の「Aminah」にあった。

 ある面でこの短編は、これらのゴミのモチーフを反転させる。つまり、ヒロインは溜め込むどころか、何もかもを文字通りに脱ぎ捨ててしまうのだから。

 そもそもアミナAminahという名は「ひたむきな忠実を意味している。この名を持つ者はアッラーに仕えるべきだ」。よりにもよってそんな数奇な名を与えられた彼女が改宗を申請し、そして却下され、そして夢遊病になった。マレーシアの制度により矯正施設に送られた彼女は、「目覚めている間は、いつも服をまとっており、時にひそかにすすり泣き、時に平静に話をした。ただ夢遊が始まると、一糸まとわぬ姿で中庭をふらつくのだった」。彼女は衣服を脱ぎ捨てる、彼女はイスラームを脱ぎ捨てる、「体内にムスリムの血が流れていれば、死んでもムスリムなのです」、そんな陋習を脱ぎ捨てる。

 しかし、「Aminah」は明らかに自由の賛歌を意味していない。かといって、このマルチ・ルーツなマレーシアのコンテクストを華語で綴っていく筆者が、原理主義的なこのシステムを支持しているようにも決して読めない。夢遊病者の痛々しい全裸は、もはや動物への退化を示唆するものとすら映る。だとすれば、ゴミこそが人を人たらしめていることになる。

 捨て去られるべきものとして一方では描かれているはずのゴミが、それにもかかわらず、現に捨てられぬままに場を占め続けている、そのあわいを読者に向けて投げ出す。「最初はまだ言葉がない。聞くことのできない叫びと悲鳴があるだけ」(「小さな町の三月」)、そんなあわいを筆者はゴミに仮託する。

 

 このゴミが暗喩する性格は、あるいは文学という営みそのものなのかもしれない。

 あるいは筆者自身の意図としては単に、宗教によって人生を壊された女性像をアミナに投影しているだけなのかもしれない。こうした抑圧構造など、一秒でも早く葬り去られて忘れ去られて然るべき性質のものなのかもしれない。

 しかし皮肉にも、書かれた文字として残されてしまうことが、少なくともこうした制度があったことを紛れもなく裏づけてしまう。書かれることさえなければあるいは順当に葬り去ることができたかもしれない何かが、現に書かれてしまったことによって記録として残ってしまう。残さなくてもよかったはずのものが残ってしまう、それはまさしく筆者が本書全体を通じて刻み続けたゴミの性質とオーバーラップしてはいないだろうか。

 おそらくこれは筆者固有のコンテクストがそうさせているわけではない。文学が、いや記録媒体そのものが、そういう風にできている。ただし、歴史性を背景にした多言語国家としてのマレーシアだからこそ、ここまでの自覚的な展開が可能だったのかもしれない。

 

「徹底した忘却は私には耐えられない。私には説明できない。それで私たちは楽になるのか、それとももっと悲しむことになるのか」。

「風がパイナップルの葉とプルメリアの花を吹き抜けた」におけるこの自己解題に勝って、果たして誰が賀淑芳という書き手を巧みに要約できるだろう。

 

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