The Misfits

 

 山田うどんについて僕[えのきど]が最初に語りたいのは、首都圏郊外の街道沿いの光景だ。ほこりっぽい風に大安売りや商品キャンペーンの幟がはためいている。風でくるくる廻るサラ金の看板、ガソリンスタンド。スーツの量販店。誰も渡らない歩道橋。退屈といえば退屈だけど、心になじむ無個性な日常風景。無個性で匿名的だ。見ようによってはモダンアートの巨匠、エドワード・ホッパーの描いた孤独なアメリカにも似ている。が、ぜんぜんクールじゃない。もう、テンション下がるとしか言いようのない「僕の地元」。

 僕は100パー確実に、その光景のなかで自己形成したんだね。……僕にしてみたら山田うどんは、そういう日常のなかでじんわり日々を過ごしてないとホントの味がわからないようなものなんだね。……

 僕が山田うどんに似合うと思う感情は、少し後ろ向きのものなんだなぁ。どうしようもない退屈。こんなことしてていいのかぁという焦燥感。寂しさや疲労感。だって、かかしのマーク見てほっとするんだよ。うどんがあったかくてうれしいなと思う。カツ丼セットがっついて、色んな後ろ向きの感情がとりあえず空腹感だったことにできる。あー、食った、ま、だいじょうぶかな、と店を出られる。

 

 山田うどんとは、すなわちアンディ・ウォーホルだった。

 いや、一読者として少し奇をてらったことが書いてみたくなったわけではない。正真正銘、本書内できちんと言質は取れている。

「増殖した店舗こそ山田の本質じゃないか? 本店&本社の所在する所沢をオリジナルと発想することこそ非・山田的である。それはポップアートや写真等、複製芸術の論争に似ている。オリジナルプリントが本質なのではない。印刷され、増殖し、メディア化したものこそが本質なのだ。だからアンディ・ウォーホルはスープの缶詰を作品にしたのだ、と」。

 彼の代表作に『マリリン二連画Marilyn Diptych』なるものがある。

 周知の通り、このワークはシルクスクリーンなる複製技法によって制作された。元となったのは彼女のパブリシティとして公開されていた一枚の写真、しかし見ての通り、かすれやゆがみを孕まずにいられないこのテクニックは、ウォーホルというキュレーターを媒介することで、現代的な用語法におけるコピー・アンド・ペーストとはまるで似つかない何かを暴露することに成功した。セックス・アイコンとしてのパブリック・イメージが一見、万人に共有されているかに思われつつも、誰にとってもマリリンは同じ現れ方をしているわけではない、もちろんひとりの人間においてさえもその像は絶えず移り行く。

 期せずして、山田はこの現象を複製する。

 所沢のセントラル・キッチンから関東のロードサイドへとばらまかれるうどんやそばは、しかし各店舗において提供されるそれは決して同じ現れ方をしない。コロッケやチャーハンのラインはほぼ無人、カレーはパイプラインを経由して容器へと流し込まれ、それなのにとある店の便所の落書きが言うことには「ここの山田うどん美味しくない」。それはまるで同じ写真を使っているのに、このマリリン、ブサい、エロくないと愚痴られるのに果てしなく似て、ウォーホルと完全に同質の鑑賞体験が美術館チケットにも満たない金額で味わえる。

 

「謎を解くために、厨房に潜入したい。/……解決策はひとつ。山田で働けばいい」。

 かくして筆者(北尾)は店舗での一日研修に出向き、それどころか実際に調理すらしてしまう。その手によって作られたかき揚げや野菜炒めは、ごく平然と客へと供された。パックされているものを温めてるだけなんでしょ、というわけでも必ずしもないらしい。けたたましいタイマーがパテやバンズの焼き上がりをコントロールする、フレンチポテトの温度管理はマシン任せ、なんて『モダン・タイムス』は山田の厨房では起きない。筆者がチャーハン二皿を仕上げるのと同じ時間で手慣れたスタッフは三皿を仕立てる、この時間差はクオリティにも反映されるだろうし、それ以前に会社サイドにしてみればコストにそのまま跳ね返る。しかしそれを甘受する、金太郎飴なロードサイドにあって、巨大チェーンになり切れない「地方豪族」を引き受ける。

「山田の厨房は、料理人の能力がモノを言う個人経営店とはまるで違う。だけど、マニュアルに沿ってすべてが行われる機械的な空間でもない。その中間だ。ぼくたちは山田に入るとホッとする。味もそうだけど、醸し出される雰囲気に和み、接客マニュアルのなさやフロア担当のおばちゃんたちの笑顔こそがその要因だと考えてきた。だけども、見えていなかった厨房内にも、同じくホッとさせる雰囲気がある」。

 それは創業者にインスピレーションを与えたアメリカのダイナーにも重なる。ハンバーガーにホットドッグにチキングリル、とどこもかしこも判で押したようなメニューで、味といえば結局のところ、卓上に置かれたハインツのケチャップとマスタードによって司られているような何かでしかない。それなのに、ローカリティを洗い流したモータリゼーションの均質な路上にあってすら、それぞれの情景を誘わずにはいない。ダイナーが出てくる映画として私が連想するのは、例えば『ミリオンダラー・ベイビー』であり、『ムーンライト』であり、『パルプ・フィクション』であり、『世界にひとつのプレイブック』であり、そのことごとくがダイナーという記号性ゆえに舞台装置として割り振られながらも、各々が期せずして別の物語を帯びてしまう。

 ラジオで山田を話してみれば、リスナーの眠れる記憶が呼び覚まされずにはいない。個人店舗ではどうにも超えられない「退屈」をめぐる共感が、郊外の「地方豪族」ゆえにこそ引き起こされる。

 そう、だからやっぱり、山田うどんアンディ・ウォーホルだった。

 

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