国民とは何か

 

 ここにあったあの店が、いつの間にか消えている。チェーン店に変わっている。そんな光景に出くわすたび、さみしいなあ、と思う。大変に失礼な物言いだが、個人商店が「絶滅の危機に瀕している」という思いに駆られたことが、本企画のきっかけだ。

 そもそもは、阿佐ヶ谷の駅近くにある文房具屋さんである。……あるとき、「これと同じものをください」と100円そこそこのボールペンを持って行った。すると、いつもにこにこしていらっしゃる店主らしき年配男性が、「ダメダメ。もったいない。替え芯がある」とおっしゃる。……

 替え芯は、160円だったと思う。その日、私はもちろんこの方のご提案に従い、とても温かい気持ちになった。

 目先の利益より、お客のため、モノのため。ひいては、地球環境のため――は言い過ぎかもしれないがこの方の気高い商いに、私はいたく感動したのだった。

 量産店やコンビニではこうはゆくまい。一朝一夕にできた店でもこうはゆくまい。

 この文房具屋さんのような心意気の店が、いろいろな業種にあるだろうと思えてきて、血が騒いだ。……

 個人商店は、地域の人々の交流の場であり、扱い商品の専門家である商店主が地域の消費アドバイザーであったかも――と膨らんだ妄想は、妄想ではなかった。個人商店は「町の宝」だと確信した。

 

「商売、遊ばなきゃ」

 ある店主は、そう筆者に向けて打ち明けた。

 千代田区一等地に店を構える豆腐屋は、地上げ屋からの20億という提示をしれっとはねのけた。理由を問われて曰く、「神田が好きだから」。芝の魚屋の朝は早い、齢80を廻ってなお店をひとりで切り盛りする主は、都営バスで豊洲へと仕入れに足を運び、「デパ地下以上のものが、デパ地下の半額以下」と常連を唸らせる品揃えを実現させる。「そんなに採算を考えていないから。人件費ないですしね」と飄々と言ってのける。90歳を超えてなお現役の時計屋は、依頼された通りの電池交換だけではそのうちまた不具合を起こすからと、内部の錆取りなどを施して、お勘定は「ハイ。800円です」。子どもの窃盗被害に遭おうとも、そのおもちゃ屋が思うことは、「こちらの責任で万引きをやらせない店づくりをしなきゃいけないので、それができていないからでしょう?」

 もちろん、単にお客様のためだとか仕事が好きだからというだけの次元ではない、続くには続くなりのリアルな秘訣はあるのだろう。その地に店を構えて数十年、つまり不動産コストを多くの場合において商品に上乗せせずに済む、典型的な先行者の優位が作用しているに違いないし、家族経営だからと人件費を多少は度外視できるような面もある。長期における構造不況の中で、拡大路線を取らなかった商売っ気の希薄さが結果的に功を奏した部分もあるのかもしれない。

 

 話題を広げていく中で、戦中世代の彼らはしばしば原体験としての戦争に触れずにはいられない。佃煮屋の主は、戦後間もなく、「私ね、すっごいいいことを思いついたの。田舎から小麦粉が手に入ったから、お団子に丸めてお湯でグラグラ茹でて、お砂糖をパーッとかけて、店で売ったんですよ。そしたら売れる売れる、ものすごく売れる。……私は、たんまり(売上金を)持って、毎日夕方には銀座に繰り出し、宝塚を観たの」。商いを営むことこそが、そして稼いだ金を好きなものに費やす自由こそが、平和の何よりの証明だった。軍需工場で兵役を逃れた先の時計屋は、戦勝の可能性を信じていたかと問われて一笑に付した。「オレたち子どもが作った兵器を使ってるんだもん、勝てるわけないと思ってたね」。市井の片隅で熟練の腕を日々顧客のために発揮すること、それこそが国力であり、豊かさだった。

 そして、本書のこのあからさまな表題を参照するまでもなく、これら運命共同体のことごとくが「絶滅危惧」であることを日々見せつけられてもいる。

「僕、仲良くなった人をもうみんな見送ったから」

 見送る側はやがて見送られる側に回り、このサイクルに終止符が打たれる。

 

 ――とは、私は実のところ、あまり考えてはいない。

 本書のテイストに果てしなく近く、ただしヒアリングというほどでもない世間話とも違う何かを案外交わしているな、と思い当たる店がいくつかある。

 例えばインド人夫婦が営む紅茶ショップ、例えば台湾人が切り盛りするエスニック食材店、例えばパキスタン人のやはり食材店、もちろんいずれもが私の生活半径の店である。近くの八百屋の、日本のおばちゃんよりもおばちゃんしている名物店員はネパールから来たという。

 たいがいは似たような商品の何が違うのかを尋ねるようなところからはじまって、気づいてみれば、まるで別の話をしている、というか火がついたように日本語でまくし立てるさまをただただ拝聴している。そんなセールスを受けて手ぶらで帰れるはずもない、といって財布から抜けていくのなんてたいていが数百円、たぶん一度の買いもので新渡戸稲造を超えたことはない。

 自分たちで仕入れて店頭に並べている商品である、当たり前のように、彼らにはそれらをめぐって語るべきことばがある。つまり、彼らにはことばがある。金は欲しい、でも売りたいものは何もない、カタログスペック通りのことしか言えない、それどころかカタログスペックすら把握しない、関わるだけ時間の無駄な、一切のことばを持たない量産型とはおよそ対照的に。

 たぶんこれらの個人商店に集まる客は、単に商品を求めて訪れるわけではない、そんなことばを求めて吸い寄せられてくる。同胞が郷里の味や匂いやBGMを欲してやってくるばかりではない、ルーツを異にする人たちが売って買う、このやりとりは専ら日本語により媒介されている。

 そう、ここには街がある、ハブがある。

 経済が崩れ落ちようとも、絶滅などしない、させない、日本がどんなに終わっていても、日本人がどんなに終わっていても、日本語は私を裏切らない。

 誰から買うか、誰へと売るか、実にこの自由こそが、市場の、至上の「日々の人民投票」である。

 

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