長距離ランナーの孤独

 

 日本が朝鮮半島を植民地としていたのは1910~45年までだった。その植民地期に生まれた孫基禎は、朝鮮半島出身の日本選手としてヒトラー政権下のドイツで開催されたベルリン五輪1936年)に出場。マラソンで金メダルを獲得し、一躍時代の寵児となった人物である。アムステルダム五輪(1928年)で初の日本人金メダリストとなった織田幹雄から数えて11人目の金メダリストであった。……

 孫基禎の勝利は、1910年以降、日本に植民地化された地に暮らす朝鮮民族の屈辱の日々に一筋の光を与えた。朝鮮の知識人たちは、彼の勝利をそのまま朝鮮民族の栄光として読み替えていく。

 他方で、孫基禎、南昇龍は、日本人コーチに見出された日本代表選手であった。彼らは、日の丸を付けたユニフォームで42.195キロを走り抜けたが、そこに支配―被支配の関係を読み解いた人はほとんどいなかっただろう。ベルリン五輪での競技ののち、日本と朝鮮の知識人らは、支配―被支配の対立のなかで、孫基禎という英雄を奪い合うことになる。……

 いま孫基禎は大田の国立墓地に眠っている。金メダリストであるとは言っても、なぜ孫基禎は国家に殉じた者たちとともに国立墓地に眠っているのか。

 本書は、孫基禎ライフヒストリーを通じて帝国日本におけるスポーツの英雄の意味を問い、その地点から日本と朝鮮半島の複雑に絡み合った近現代史の関係を描いていく。

 

 健全な精神は健全な肉体に宿れかし、との古代ギリシアの嘆き以来、この両者はしばしば互いの連結関係を絶たれたかのごとくに語られる。スポーツはスポーツ、政治は政治、トーキョー・オリンピック2020の腐り果てたおもてなしを前にしてすら、選手には罪はないという言説が一定の支持を受ける。所詮は軽い神輿でしかない彼らにそもそもの意志を認めないという仕方で、一見擁護と見せかけたこれ以上ない侮辱を受けながら、当の彼らも彼らでまともなオピニオンのひとつも発しようとはしない。いや、軍隊そのままの体育規律の中で、そのようなものを持たないように教育されて、すっかり飼い馴らされてきた彼らは、実際にいかなることばも持たない。低スペックなbotそのままに国民への感謝を棒読みする彼らからは、精神と呼べる一切は見出し得ない。

 

 ひたすら一方的に眼差される存在、語られる存在、語りの主体たりえぬ存在として運動選手を定義づけるとき、時代の激流の中で、孫基禎ほどに興味深いサンプルはそうそう見られない。

 植民地下の民族主義者にとって、持久力の極限を具現した孫基禎の成功は偉大なる朝鮮の優生学的な証明だった。

 他方で、帝国日本にとっての孫基禎は「内鮮融和の一助」だった。とある新聞に言わせれば、彼は「躯幹の大小によらずして身神の鍛錬に基ずくものなるを実地に例証した」。優勝はひとえに日本の教育システムによってもたされたものであり、朝鮮半島全体がこの経験をスポーツに限らず敷衍することで、帝国がひとつにまとまって輝ける八紘一宇を成し遂げるのだ、と。

 そして間もなく、この決裂を象徴する大事件が起きる。時の朝鮮のリーディング・ペーパー紙上にて、孫基禎の「胸にあるはずの日章旗の日の丸がボケており日章旗として判別できないように掲載」された、「写っていたはずの日章旗が消されていたのである。……意図的なことが明らかだった」。この記事が「民族的意識に基く不逞の行為」とみなされて、東亜日報は停刊処分を受ける。総督府によるプレスリリースの論調は極めてシンプル、選手を政治利用するな、という政治利用の典型がそこにあった。

 時は流れ、死に際すらも彼は両国の狭間で翻弄された。「200112月、孫基禎は神奈川県川崎市の井田総合病院にいた。その情報を耳にした韓国企業の面々は孫基禎をソウルの三星ソウル病院へと移送する手筈を整え、日本から韓国に孫を迎え入れたという」。それから約1年後に彼は天寿を全うする。籠の中の鳥は自らの逝き方すらも決めることを許されなかった。

 

 彼はのちに栄光の瞬間を振り返って言った。

「あのときわたしは心のなかでは、日本のためではなく、韓国のために走った。日本の人は知らないかも知れないが、韓国では今でも『国無し時代の孫が優勝した』といっている。私も同じ気持ちだよ」。

 今さら言うまでもない、1936年の朝鮮半島はまさか終戦後の38度線をめぐる運命を予知しない、ベルリンの孫基禎は未だ我が身を捧げ走るべき韓国を持たない。

 語りはいつだって肉体のリアリズムをすり抜けていく。

 

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