魔太郎がくる!!

 

 2022年、この男ほど物議を醸した人物はいなかったのではないか。

 ガーシーこと、東谷義和――。

 日本でバーやアパレル会社、芸能プロダクションなどを経営してきた51歳。彼は2022217日、突如としてYouTubeで、「ガーシーCH」という名のチャンネルを始めた。自らの詐欺疑惑が発覚すると、ほとんどの芸能人の友人から連絡が途絶えたとし、「そのすべてから手のひらをかえされ、すべてを失った」と主張。「すべてをさらけ出したる」と、自ら見聞きしてきた俳優や芸人らのスキャンダルを次々と暴露していった。……

 視聴者の反応も真っ二つに割れた。「カネ目的の身勝手な暴露」と非難するものから「芸能界の闇を暴いた」と喝采を送るものまで賛否は分かれたが、チャンネルの登録者数はわずか3か月足らずで120万人超に急増する。……いつの間にか、「ガーシー現象」「一人週刊誌状態」などとの論評まで現れるようになった。……

 私は朝日新聞ドバイ支局長として20224月にドバイで初めて接触して以来、東谷を取材対象として追い始めた。同8月末で朝日を退職して作家として独立したが、ドバイに引き続き住み、取材を継続させてきた。

 その中で常に意識していた、いくつかの問いかけがある。

 なぜ東谷はドバイに向かい、どのようにしてガーシーCHを始めることになったのか。その裏で糸を引いていたのは誰だったのか。そして、どのような人々が東谷の周辺に集まり、一体なにが起きていたのか。

 

 エピローグにて、本書全体を貫く、ひどく腑に落ちる表現にはたと出くわす。

「暴露と報道は本質的に同じ営みである」。

 昔日、本邦が誇るクオリティ・ペーパーとして鳴らした――果たして真にその称号がふさわしい時代が一瞬でもそこにあったのかはあえてここでは問わない――朝日新聞で仮にも記者を務めた人物をして、自身の著作の中でこう言わしめてしまうのである。有言実行というべきか、果たして氏は退社を自ら選択することとなるわけだが。

 ごくごくプライベートな著名人のスキャンダルの「暴露」と「報道」が、この筆者においては完全に同一線上に並ぶ。そして「ガーシー現象」を祝福しただろう多くのリスナーたちもまた、この定義を完全に共有している。

「一人週刊誌」という評において想定されているコンテンツなど、幸か不幸か、日本にはただひとつしかない。もちろん、『週刊文春』である。

 遡ること4半世紀弱、この媒体上でひとつのキャンペーンが打たれた。ジャニー喜多川の犯した性加害の告発だった。もっともそれはあくまで、ホモフォビアに由来するイエロー・ジャーナリズムの「暴露」の域を超えるものではなかった。それから数年、名誉棄損をめぐる民事訴訟においてその行為が事実上認定されてなお、大手メディアは足並みを揃えてほぼ黙殺を貫いた。

 その帝国に亀裂を走らせたのは、2023年のBBCによる「報道」を待たねばならなかった。間もなく国連の人権委員会による調査が、ヒアリングを通じてこのファクトを補強するかたちで伝えた。対して、利害を今なお共有し続ける日本のテレビや新聞は、独自スクープなどいくらでも生み出すことができるだろうに、嬉々として「報道」しない自由を行使し続ける。

 少なからぬ日本人は、ほぼ時を同じくして、別のルートからこれらの情報を知る。それがすなわち「ガーシーCH」だった。元ジュニアのメンバーが、BBCに寄せたのとほぼ同じ証言を改めて当該チャンネル上で明かすことで、ある種のクラスターには燎原のごとく広がっていった。そしてその支持者たちは、口を揃えてガーシーを称賛した、彼がBBCを動かした、彼が世界を動かした、と。

 もちろん、ファクトはそれとは著しく異なっていた。ガーシーCHが立ち上がるより以前から、イギリス国営放送の取材班は、既に調査報道のための下準備に動いていた。ハーヴェイ・ワインスタイン、ジェフリー・エプスタイン、ジミー・サヴィルといった例が示しているように、その検証が表に出せるようになるまでには長い時間を要する。そのタイム・ロスの少なからぬ部分は単に大人の事情に由来するところもあろうが、そこまで矯めつ眇めつの吟味を経て、はじめてひとりの人間を告発することができる、それほどまでに重いのである。

 しかしおそらく「暴露と報道」を同一平面上でしか把握できない輩には、そうした営みの何もかもがタイパとコスパの無駄としか映らない。そうして彼らは人の噂も七十五日どころか、7.5秒で次から次へと炎上ネタを消費していく。

 吉本も宝塚も統一協会も、あるいは震災やコロナすらも、彼らは束の間フラットにポルノのように食い散らかして、間もなく賢者タイムの冷笑を浮かべて言う、まだやってるの? と。

 そしてパレスチナはクリックすらされない。

 

「暴露と報道」を隔てるものは、単にかけた時間と労力の問題ではない。

 それは何よりも人権をめぐって分かたれる。

 旧ジャニーズの性加害のおぞましさは、単にひとりの権力者の歪んだ性癖のみに由来しない。それは何よりも推定四桁の被害者をめぐる人権と尊厳の問題なのである。困ったおじいちゃんの困ったゴシップが「暴露」されたから問題なのではない。その被害者がおそらくは生涯拭うことのできぬ傷を負ったということ、そしてそのダメージを検証し再発させないための道を報じる、「報道」されて然るべき行為であるからこそ、問題なのである。同じ構造が温存される限り、次なる被害者は必ず生まれる、その人権を未然に守るためにこそ、未来を築くためにこそ「報道」はある。

 しかし、世間は文春砲にそんなことを望んでなどいない、いわんやガーシーをや。

 溺れた犬を棒で叩く、その瞬時のストレスのさや当ては、次の獲物を捕らえることでしか満たされない。政治の汚職も、国家の腐敗も、たかが不倫スキャンダルも、彼らにとっては何も変わらない。ただ憂さを晴らせればそれでいい。自業自得で自己責任な汚れた英雄をいたぶることに彼らは何らの良心の呵責も覚えない、それどころか、そこに正義の発動を見る。彼らには、スクラップはできても、ビルドはできない。

「暴露」を消費する者は、いかなる未来も構想できない。

 

 この騒動の中心たる東谷義和当人に目を向けるとき、たまらなく虚しい気持ちに苛まれる。

 買い与えられたおもちゃでしかクラスメートとの関係を構築できない、マンガやアニメに描かれる、金持ちのボンボンのいじめられっ子の類型そのものではないか、と。金の切れ目は縁の切れ目とすべてを失ってはじめて、自分が食い物にされていただけだったことに気づく、そんなネグレクトをめぐる悲しい復讐劇なのだ、と。そこにある種の純真さすら垣間見えてしまうからこそ、「暴露」は限りなく自傷行為に似て、なおいっそう痛々しく映ってやまない。

 そして、「ガーシーCH」のリスナー層もまた、虎の威を借る狐とは異なって、少なからずこうした裏切られの経験を有するからこそ、共鳴し熱狂していた、ように映る。やられたからやり返す、弱者たちはその夢を彼に仮託した。「現象」は唯一、社会のウォンツを巧みに掬い取ったときにのみ生まれる。

トリックスター」でもなければダーク・ヒーローでもない、東谷義和とはすべて日本人の惨めで哀れな等身大の肖像に他ならない。

 

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