ランニングフリー

 

「爵・金・顔・人・成績」。

 貴族制が廃されたはずの戦後においてすら、入学調書で爵位を問わずにはいられない、そしてその格付けに基づいて生徒間のヒエラルキーが決定される。それがこの学校を取り巻く「校風」だった。

 ところがそんな学校にあっても、ことそのクラスはいささか異なる不文律によって司られていた。すなわち、「宮を支配する者がクラスを支配する」。

 そう、そのクラスには「日本にただ一人の存在」があった。

 

 ある日の自由討論の授業でのこと、テーマは《男女交際の限界をめぐって》。

 そのひとり、岩瀬が大演説を打つ。

「ここに、女を観念的にしか考えられない人がいるとします。だが、果して恋愛とは観念でしょうか。また、将来の結婚にしても観念的な結婚というものがあり得るでしょうか。恋愛とは行動なのです。そしてそれを抑制する者がいるとしたら、その人は罪人なのだ。女を観念的にしか考えられない人を作りあげる人がいるとしたら、その人は人間の裏切者だ」。

 そこに「ひときわ、熱心に、体をのり出して討論に耳をすましている人の影像」があった。

 それは、高校三年生が級友同士で連れ立って夜の銀座へ散歩に繰り出す、ただそれだけの行為を「冗談は止めて下さいよ」と咎められなければならない存在。それは、ただレストランで食事をしているだけなのに、支配人がしゃしゃり出てきて、お代は結構です、などと固辞されなければならない存在。それは、たかがこれしきの語りに「紅潮した横顔」を抑えられない「同じ人間」のひとり。それは、《無表情》という「《皇太子》の装い」を強いられた存在――すなわち、「宮だった」。

 この「冒険」へと誘い出した岩瀬が、恋愛に仮託して熱弁しているものの寓意は明白だった。すなわち、「宮の解放」だった。そして当の宮もその意を解し、にもかかわらず、岩瀬はやがて《壁》を前に、「宮を支配する者がクラスを支配する」その座を降りることを余儀なくされる。

 

「どこまで行っても《俺》は《御学友》なんだ。《俺》マイナス《御学友》イクォール《零》なんだ」。

 この等式は、「宮を支配する者がクラスを支配する」との格率に縛られるクラス全体を規定せずにはいない。

 しかしこの式は、宮との近しい関係を獲得できなかった《俺》に晴れて別のアイデンティティが割り振られるという可能性を担保するものではない。《御学友》ですらあれない《俺》もやはり《零》なのである。なぜならば、というその答えは先の討論に示されている。「行動」を予め禁じられた宮によって規定されるそのクラスは、「観念的にしか考えられない人を作りあげる人」によって作り上げられた、「観念的にしか考えられない人」の集合体、すなわち《零》でしかあれない。

 この構造を指し示す、いかにも象徴的な作法がある。クラスの住人は、岩瀬に水野に京極に舟山と、宮と後に触れるもうひとりの例外を除いて、そのことごとくが姓をもって綴られる。つまりファミリー・ラインの反映としてしか彼らはその呼称を持たない。このことは、日本という巨大家父長制カルトの頂に君臨する天皇の、縮小再生産モデルとしてのイエの軛に各々が依然として留まり続けていることを示唆する。従って、「《俺》マイナス《御学友》イクォール《零》」の式は、《御学友》の項に爵位なり父系を代入しても同様に成立する。

 もちろん終戦をもって、宮は既に「純粋には、今の時代にレゾンデエトルのない人間」と化した。憲法改正、あるいはそれに伴う民法改正をもって、その家父長制もまた、同時に失効した。それなのに、《俺》は《俺》ではあれない、《零》であらねばならない、なぜならば「行動」を奪われているから。だから、イエを表す姓を離れた、「行動」の主体としての名を彼らは持つことができない。

 このテキストは、皇太子の肖像をめぐる私小説ではない。むしろ、さらなる反転を重ねて今や「宮の解放」こそが寓意なのである。《自由》を叫ぶことができない、「行動」を叫ぶことができない、そんな不能の哀れな群像を本書はひたすらに綴る。空虚な中心を強いてやまない、《零》を自らに対して抑圧してやまないすべての日本人をひたすらに綴る。

 

 クラスにあって、ただひとり吉彦のみが一貫して、千谷という姓ではなく名をもって描写される。

 このことには根拠がある、というのも吉彦を吉彦たらしめるメンターが彼にはいるのである。

 朋子という14も歳の離れたそのメンターは、かつて彼の義理の叔母だった。元海軍将校の叔父を捨てて、《破廉恥》にもアメリカ人と結ばれたことをもってその縁戚関係は消滅した。

 そんな朋子と夜な夜なデートに耽る。ダンスで互いの肉体を擦り合わせる。キスだって当然のように交わす。そこまでしながらも、彼はこと肝心の「行動」には踏み切ることができない。

 ここにもまた、宮の影がとりついていた。「俺は宮になに一つ与えることもしないで、ただ離れようとした」、その「インポテ」な吉彦は自らを苛んでやまない。「《理由》などありはしない」、そこにはただ激情だけがあって、奔放にかつてイエの掟を破った朋子に導かれながらも、彼は未だ「観念的」をめぐるその一線を越えることができない。吉彦という名を認められる程度には「行動」を携えながらも、彼もやはり、《零》の束縛を逃れることができない。

 吉彦と朋子を薄皮一枚隔てるもの、それはすなわちアメリカの有無だった、《自由》の有無だった。

 

 奇しくもこの小説が上梓されたのと同じ1956年、もはやシンクロニシティとしか称することのできない一冊の歴史的古典が著される。

金閣寺』。その著者は三島由紀夫、『孤獨の人』に序文を寄せている、言い添えるまでもなく学習院の出身者である。

 この小説において主人公の「私」は、幼き頃より父に聞かされて育つ、「金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった」。ところが「私」が長じて僧として目撃した金閣は、その途方もない偶像とは似ても似つかぬ何かでしかなかった。戦後社会の堕落に包囲されながら、比類なき美の象徴に火を放ち、そこではじめて「生きようと私は思った」。

 これをまさか牽強付会咎められる筋合いもなかろう、「今の時代のレゾンデエトルのない」存在、明らかに三島は金閣天皇制を仮託していた。

 

 ひとまずの閑話休題、『孤獨の人』のワンシーン、学習院の面々が東北への修学旅行に繰り出す。もっともそれは、「神社、仏閣、観測所に研究所」……その訪問先の一切が、当然のように宮の存在を前提に構成される、限りなく行幸に近い何かでしかなかった。

 宿泊先で供される夕食のメニューまでもが報道される、そんなメディアによって織りなされる空前のフィーバーの中で、行路の一切は当然のように民によって把握されていた。宮を乗せたバスは行く先々で熱烈なる歓迎を受ける。隣に座する岩瀬は、窓に顔を向ける宮の後ろ姿に動揺を隠せない。日の丸をたなびかせながら、「皇太子殿下、万歳、万歳、万歳」を叫ぶ「群衆に与える視線は一瞬たりとも一カ所に止る、ということはなかった。それは、宮の悪意でも蔑視でもない、いやむしろ、宮は群衆に対して忠実ですらあるのだ」。特定の誰かを決して眼差さない、特定の誰かに向けて決して手を振らない、宮はひたすら《壁》に向けて応答を続ける。何者もいない、そこにはただ民だけがある。だからこそ、宮は常に「孤独」なのだ。

 そして岩瀬の脳裏をひとつの疑問がもたげる。「宮の眼が特定の一点に注がれることがないというならば、《壁》となっている人垣はいったい何のために歓呼の声を挙げ、旗を振りつづけるのであろうか」。

 もちろん《零》である彼らは、そんなことに葛藤を覚えない。敬して遠ざけるというその仕方で、彼らは自らの思考停止をせっせと正当化してやまない。戦争責任を免れて「象徴」として存続を認められた皇族の戦後におけるただひとつの「レゾンデエトル」とは、まさにこの点にある。皇族から主体たる能力を剥奪する彼らは、その不能の象徴をもって自身もまた、不能たることの免罪符を獲得する、いや、そればかりか、戦前においてすら自らもいかなる主体ではなかったのだという歴史修正主義を発動させる。戦争責任の追及を不敬として回避することで、延いては日本という主体の戦争責任を棚上げする、日本という主体を《零》にする、そのための空虚な緩衝装置としてのみ今や皇室は呼び出されて今日に至る。

 数ヵ月前、吉彦の乗り合わせたバスが、メーデーのデモ隊に出くわしていた。「右半分が『センソー』と叫ぶと、左半分が一斉に『ハンタイ』と叫ぶ、その奇態な行列」を万歳の人ごみにオーバーラップさせながら彼はふと思う、「皮肉なことは、宮の孤独の加害者たる《壁》の製造者が、この日の丸の群衆であり、彼が51日に眺めたデモ隊の群衆が加害者ではない、という事実だった」。

 ここに三島と東大全共闘の間に交わされたあの討論をダブらせてしまうのは飛躍なのだろうか。

 三島は確かにあの瞬間、ある種の共感を論敵に寄せずにはいられなかった、《壁》という「加害者」に対しては寄せようもない共感を。

 三島にとっては《零》からの解放のよすが天皇だった。三島は《壁》には見出し得ない「行動」を全共闘に見ていた。そこに差異があるとすれば、天皇をいかにして位置づけるか、その一点にすぎず、しかし互いにとって、その一点こそが決定的だった。

天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ」。

 この一年後、市ヶ谷駐屯地で自衛隊員という《壁》を前にして決して届くことのない「檄」を、そうと分かり切った上でそれでも叫ばずにはいられなかった三島は、おそらくは一脈ならず通じるものを全共闘に見ていた。しかし繋ぐ手をついぞ差し出されることのなかった三島の前途に、切腹の他にいかなる道がありえただろう。

 日本人が主体を獲得する、仮に三島の満願が成就するとき、そうして確立された個はもはや空虚な中心としての天皇すら必要とはしない。決して叶うことのないこの世界線の日本では当然に、天皇はいかなる「レゾンデエトル」をも与えられない。主体たりうる国民は軽い神輿を求めない、この倒錯し切った論理矛盾の限りで、三島は誰よりも熱烈な象徴天皇制の支持者だった。

 

 日本人であるということは、《壁》であること、《無》であること以上のいかなる含意をも持たない。

 この《壁》を前にした絶望に打ちひしがれる三島には辛うじて自死が許された。しかし、『孤獨の人』の宮にはそれが許されない。

「やがて、宮は孤島に立ちつくすことに諦めを持ち、切なげな眼で岬を見返すこともしなくなるのだ。それが、流人の終身囚と異ると誰が言えるのだ。囚人は自ら命を絶つことができる。囚人が命を絶っても、世の中は一顧も与えず動いて行く。だが、宮は《生きる》ことを誰よりも強要されているのだ」。

 

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