そだねー

 

 発酵に関わる仕事をすると決めてから、東京農大の先生たちの調査を手伝って地方に行くことが多くなった。……辺境へ辺境へと行くうち、人口数百人の離島や人里離れた山村に、奇想天外な発酵文化がひっそりと継承されていることを知った。現地で手作りしている人にその成り立ちを聞いてみたところ、海の外のアジアの国々とのつながりが出てくることに驚くことがたびたびあった。山の中の発酵茶が、東南アジアの茶の起源を。島の織物が、ミクロネシアの染色技術の起源を宿している。

 現代生活から隔絶された日本の辺境で、かつて僕を魅了したアジアのアナーキーさに再び出会ったのだ。僻地で生まれたサバイバルの知恵が、その土地ならではの価値の多様性を生みだしていく。そしてそれははるか海の向こうの文化とつながっている――。

 ある日、奄美の島海を眺めている時、僕はアジアの発酵を巡る旅に出ることを決めた。日本の発酵食のルーツと、自分の内に流れるアナーキーさの源流をつきとめるために。

 

 例えば雲南の奥地の牧草地帯にて供されるのは一杯の茶。もっともそれは、「日本人がイメージする、嗜好品としてのお茶とは全く趣が異なる飲料なのだね」。

 茶葉はいわゆる後発酵茶、微生物の働きを通じてビタミンやアミノ酸が引き出される。そこに加えられるのがヤクのバター、煮沸殺菌したのち一晩発酵させた乳を撹拌して、「酸味があってチーズとバターの中間のような味」がするという。そこに塩を加えることでミネラルもチャージされる。バター茶というより味噌汁に果てしなく近い、まさに「日常の栄養摂取に欠かせないソウルフードだ」。

 

 中国奥地からチベット、ネパールを経てインドにたどり着く。観光地化されていない辺境の景色を織り込みながら、酒を含む食べ物を訪ねていく旅になるのだろう、そう早合点していた私は虚を突かれる。

 そのとき筆者が向かった先はダーリー――大理石の名はこの古都から来ているらしい――の街外れに佇む一軒の工房、その店先には「独特の発酵臭」が立ち込める、それも「徳島の吉野川周辺でよく嗅いだ」という。営まれているのは藍染、「板藍根という植物の葉を生のまま水につけ、石灰を入れて2~3日間発酵させる。次に葉を取り出した青緑の液に、微生物のエサとなる砂糖を加え、さらに2週間ほど発酵を促す。すると液の色が青紫に変わっていく。……この染料液に、綿や麻の布を5~10回繰り返し漬けて染めていくと、ダーリーブルーの藍鼠色が生み出される」。この基本的な手順は阿波藍と共通している、だから似たような香りに包まれる。

 もっとも、ジャパンブルーの阿波藍が「グローバル産業として発展したのに対し、沈殿藍はローカル産業に留まった」。筆者が睨むに、それは「携帯可能」性の有無に由来する。後者は「生の葉を原料とするが故に、原料のバンランゲンの葉が採れる場所でしか染色ができない」。

 言い換えれば、ダーリーブルーの発酵臭はこの街を訪れなければ嗅ぐことができない、生態系の違いからもたらされる、阿波藍とは似て非なるそのニュアンスは。

 阿波藍は「すくも」に旅をさせる、沈殿藍は人に旅をさせる。

 

 中国茶会の作法と言えば、まずは急須や水盂といった基本となる4つの茶器を用意する。

 一煎目、急須に熱湯を注いで1分足らずで飲杯に入れる、もっともこれは容器を温めるため、発酵茶の場合はそのまま水盂に捨ててしまう。あくまで茶葉が開いた2煎目からが本番で、34煎と重ねていくうちにテイストがみるみる変わっていく。

 たかが息抜きでしかないはずの喫茶の手順をまとめているうちに、なぜか私たちはこうしなければいけないのだ、と強迫観念に絡め取られていく。中国から伝来した茶の文化が、道なる概念と合流することでいつしか作法に雁字搦めに収斂していったように、目的と手段がいつしか転倒してしまうのがどうやら日本の習癖らしい。

 しかし輸入のちガラパゴス改造の源流、プーアル茶の産地、シーサンパンナでは誰もそんなことは気にも留めない。「夕暮れ前のゆったりした午後の時間……ちょっとバランスを崩すと転げ落ちてしまう安手の椅子に座り、ヒビが入った耐熱グラスとそのへんに置いてあった小皿をフタ代わりにかぶせた即席ポットで、お湯がこぼれるのをお構いなしに茶を入れる。地面にはクチャクチャ嚙み捨てたヒマワリの種の殻と、タバコの吸い殻が散乱し」ているようなその環境で、まるで土方のオッサンの缶コーヒーブレイクタイムのような空気感の中で、ところが生産者たちが「無造作に茶葉を選び、テキトーな所作で淹れたその一杯が飛び上がるほど美味い。……

 茶の本質は、心の平穏。俗世の慌ただしさで汗と土埃にまみれた己の精神の伽藍のなかに吹く安らぎのそよ風、それが茶の尊さ。力強い土から生まれた生命力を口にすると、口いっぱいにたおやかな香り、濃厚なうま味、滋味あふれる苦味、まろやかな甘味が万華鏡のように花開いていく。

 しかし喉を通る時にはその複雑さは揮発し、穏やかなのに鮮烈な涼やかさがミントのように香って消える。その余韻はほんの一瞬のはずなのに、全神経が持っていかれてしまうような、意識が空に飛んでいってしまうような不思議な味わいなのだった」。

 通販で同じ茶を取り寄せて淹れたとしても、この味が決して醸されることはない。その地に住まう細菌叢がその地でしか培うことのできない発酵臭を茶に与えるように、その土を踏みしめることではじめて「不思議な味わい」は放たれる。源流だろうが下流だろうが、発酵の地を訪ねれば訪ねた数だけ、風土と歴史に養われた「不思議な味わい」はきっとする。

 山岡士郎に言わせれば、「ワインと豆腐には旅させちゃいけない」。本来ならば、茶だって、酒だって、調味料だって、旅させちゃいけない。モノを旅させちゃいけない。

 だから僕らが旅に出る。

 

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