記念の詩

 

 そうだ、旅に出よう。

 旅のためにいつ休暇を取ろうかという悩みは、無職者にはない。帰る場所がない無職だからこそできる本当の放浪生活の可能性に気が付いて、落ち込むどころかむしろラッキーじゃないかと興奮した。

 私には、夢がある。世界5大陸をカヤックで旅するという夢だ。……

 安直に、ただ名前の響きがよいという理由で選んだその川は、改めて地図で確認しするとかなり壮大な川であることがわかった。

 全長およそ2800キロ、源流のドイツを起点に通過する国々は、オーストリアスロバキアハンガリークロアチアセルビアブルガリアモルドバウクライナルーマニア。これら10カ国を通って黒海に流れ着いた川の水は、南下してボスポラス海峡を通り、マルマラ海という小さな内海を経て地中海に繋がる。……

 私は、西洋の文化圏アメリカを飛び出し、自分のルーツである東洋の文化圏をカヤックで目指すのだ。……

 家も仕事も恋も結婚も、一旦みんな忘れて、川の流れに身を任せてみよう。そう決めた途端、心がスッと軽くなった。

 私は仕事を捨てて旅に出るんじゃない。仕事に捨てられたんだ。でもおかげで、旅立ちの背中をポンと押してもらえた。

 

「世捨て人的な放浪の旅人」。

 筆者によるこの自己定義を耳にすれば、日本人ならば誰しもがただちに連想するだろう、ひとりの先人がいる。姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅、その人である。山田洋次のレンズは彼の背景に、昭和の当時においてすら既にノスタルジー漂う日本の断章を切り取り続けた。

 対して筆者は、現代のドナウの光景を文章によってディスカバーしていく。

 旅のはじまりはドイツ、とここでいきなりの頓挫を余儀なくされる。美しき青きドナウは、しばしば水力発電所によってせき止められ、流れは無情に途絶する。荷物を含め総重量70キロのカヤックを水から自ら引き上げるより仕方ない。人にも自然にも冷たい、真冬のドナウに水力発電の残酷な真実を知らされる。

 預金残高約30万円の無職の旅にはいたるところに経済リアリズムの影がのしかかる。オーストリアの教会ミサでウィーン少年合唱団による讃美歌のコーラスが聴くチャンスに遭遇する。ただし、お値段ざっと6000円。「1ユーロショップで買ったペラペラのゴム製の便所サンダル」を履く身分に手の届く金額ではなかった。ところが隣国スロバキアでは、同じ通貨を使っているというのに、「手のひら両方を広げても負けるくらい大きいチキンカツとコンソメライスに野菜ピクルスが乗った特大プレートが4ユーロ50セント」で食べられる。ほんの少し前、ドイツでは「豚肉のソテーと目玉焼きとマッシュポテト、そこに小さなスープと水代わりにアップルサイダーを頼んで23ユーロ」していたというのに。

「私は廃墟に目がないのだ」、そんな筆者はクロアチアにて巨大な工場跡を訪れる。「元はコンクリート打ちっぱなしの冷たい建物なのに、屋根がすっぽりなくなった部屋なんかは、太陽の光が葉を透過して温かい黄緑色の光で満たされていた。……割れたガラスや落書きもほとんどなくて、誰かが勝手に住み着いているニオイもしない。代わりに靴底みたいなゴム片が転がっていた」。国内有数の靴工場が廃墟と化した、ターニング・ポイントは旧ユーゴスラビアの内戦だった。1991年、セルビアが同胞を守るためとの口実をもって、独立を宣言したばかりのクロアチアを侵略する。当時勤めていた労働者のほとんどはセルビア人で、かくして一夜にして生産拠点たることが放棄され、まるでラピュタの世界のような廃墟となって今に至る。

 そんな世相に疲れ果ててか、2015年、セルビアクロアチアの国境、ドナウのほとりの無主地のひとつにリベルランドとして独立を宣言した人々がいる。金欠の筆者は、よりにもよってその土地に潜入する、というかキャンプを張る。もっとも「本当に生きた心地がしなかったのは、国境警備隊との睨み合いではなく、その翌朝の出来事だった。……/森の中からハッキリと、低いうなり声が聞こえた。驚いて振り返ると、黒い四足歩行の動物が見えた。……/熊だと思った」。

 ドイツを源流に黒海へと注ぐ、そのほとりで待ち受けるはルーマニアと、そしてウクライナ20222月、極寒のドナウにカヤックを浮かべた筆者は、程なくしてその終着点が侵攻されることなど、まさか知る由もない。

 たかがフーテン女の放浪旅が、経済を反映せずにはいない、政治を反映せずにはいない、戦争を反映せずにはいない。

 何もグローバルに意識高くニューストピックを拾い集めて廻っているわけではなかろう、でも普通に旅しているだけで嫌でも目に飛び込んできてしまう。日々の暮らしに、経済が関係ないはずがない、政治が関係ないはずがない、戦争が関係ないはずがない。

 

 ごくごくパーソナルなはずの営みが否応なしに社会性に包囲される、期せずして時事ドキュメンタリー性すらはらんでしまったこのテキストの魅力は、しかしながら、そんなところにはない。

 なぜだろう、とにかく文章として面白い、気づくとページを繰っている、そしてその魅力をことばにしようとして途端に立ち尽くす。

 あることないこと織り交ぜてアッパーにパワー・ワードをがなり立てるでもない、さりとて何者でもあれない無職の葛藤に縛られてダウナーなテンションで綴られるでもない。コメディでもなく、ペーソスでもなく。一人称で記されているはずなのに、どこか三人称的な飄々としたその文体は、ごくごくシンプルでありながら無味乾燥ということはない。しばしば自分語りが織り交ざっているはずなのに暑苦しさや押しの強さはない、ただし、はじめから分かってもらえるはずもないという諦念や絶望に浸っているでもない。もしかしたらそれは単に、旅する「私」と書く「私」のタイムラグがもたらした偶然の産物にすぎないのかもしれない。筆者一流のものとして帰属させるべき特徴はないといえばない、しかしだからこそかえって、赤の他人である読者が活字へと没入できている、のかもしれない。うまいだ、巧みだ、と褒めちぎるのも何か違うような気がして、ましてや熱弁をまくし立てるなんてそれじゃないんだよなの極みで、あれやこれやと巡らせながらはたと気づく。

 この文体、まるで水のようなのだ、と。

 ダシが利いているでもない、甘みや塩味が溶かされているでもない、その要素を説明しろと言われてもできないけれども、でもなぜか、世の中にはおいしいと感じさせてくれる水がある、そんな味がこの文体から滲み出す。足し算することで生まれてくる何かというよりは、ひたすらに削り落とした末にそれでも残ってしまう何か、ただし研ぎ澄まされた洗練とも違う、そんなless is moreが本書を満たす。

 思わぬ才能にめぐり合う。

 

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