思いを伝えるということ展のすべて

 

X」という奇妙な出会い系サイトの存在を知ったのは、引っ越したばかりの頃だろうか。若い社会起業家の親書を流し読みしていて、あるページに目が留まった。新しい時代のウェブサービスのひとつとして紹介されていたその内容は「知らない人と30分だけ会って、話してみる」というものだった。(中略)

 そうだ。

 

 ここで、あれをやってみるというのは……?

 

 ふと閃いて、すぐに打ち消す。いきなり知らない人相手にそんなことできるわけないし、いくら何でも無謀すぎる。今までそんなこと、やってみたこともないのに。

 ……でも、別に失敗したところで何が起こるというわけじゃない。何にもできなくたって、ちょっとがっかりされるくらいのことだ。何もしないよりはいいじゃないか。

 

 さんざん迷った末、私は自分のプロフィール欄を修正して、再登録した。

 

「変わった本屋の店長をしています。1万冊を超える超える膨大な記憶データの中から、今のあなたにぴったりな本を1冊選んでおすすめさせていただきます」

 

 ザンビアの紙幣1枚からはじめて世界一周のフライトチケットに化けるまでのわらしべ長者を企画する医学生に対して推薦する1冊が『オン・ザ・ロード』で、そのコメントにしても「安定した生活を拒否して自由な旅に出る若者たちを描いたケルアックの小説で、50年ほど前に出版されたのだが、今もバイブルのように大切に読んでいる人が多い本だ」という程度の何か。

 そのまんまやないか。

 このサンプルが殊更にお粗末すぎるというのではなく、全編通じてその手の安直な連想ゲームを超えない。ノマドワーカーに推したのが、レイモンド・マンゴー『就職しないで生きるには』だの、ジョン・クラカワー『荒野へ』だの。あとはせいぜいが、ヴィレヴァン丸出しの、タイトルやカタログスペックのインパクトに頼っただけの一発芸。1万冊の脳内アーカイヴズを謳ってはみるが、それらを実読しているわけでもない。職業欄に「セクシー書店員」、ショートコメントに「Hになればなるほど固くなるものなーんだ? 答えがわかった方、お会いしましょう!」などと書いておいて、タダマン狙いのクソオジホイホイにならない可能性を想定できる、その程度のリテラシーの持ち主である。

 他の有名書店員のレヴューを指してこき下ろす。

「内容についても文庫の裏表紙か、アマゾンの内容紹介に書いてありそうな、とおりいっぺんの説明だけ。その人の肉声も、その本の魅力もまったくその人によって語られていなかった。/……書評が死んでる、と思った」。

 それはそれは、呆れてしまうほどに見事な自己解題。

 

 その中にあって、困ったことに、どうにも白眉としか言いようのない箇所がある。

 

 そのヴィレッジヴァンガードに入社してほどなくして出会った吉田さん。入社当初の10年前は、同じ店の店長とバイトという関係だった。

 吉田さんと初めて本の話をしたのは、六本木ヒルズ店のバックヤードで休憩していたときだった。唐突に吉田さんが、

「この人知ってる? めちゃ面白いんだよね」

 と言ってわざわざカバンから取り出してみせてくれたのが、その当時出たばかりの穂村弘のエッセイ『もうおうちへかえりましょう』だった。その人のことは全然知らなかったが、吉田さんがそう言うなら何か特別な本かもしれない、そう思って読み始めると、本当に今まで読んだことがないくらいに面白くて、一気にハマった。吉田さんにそう伝えるとよろこんでくれて、それから2人で個人的に本の話をするようになったのだと思う。

 

「本当に今まで読んだことがないくらいに面白くて」のそのポイントを具体的に書けよ、と心底うんざりこそするが、事実として筆者の初期衝動が遺漏なくこの文章に籠められていることは否めない。他人からリコメンドされた、感想を伝えたら喜んでもらえた、だから今度はリコメンドする側に回りたい、知的ミームの継承をめぐる美しいサイクルがそこにある。

 

 そもそもにおいて、体験型と知識型とを問わず、別にコンテンツの面白さなんて誰とシェアできているわけでもない。大げさに言えばコペルニクス的転回、それぞれがそれぞれのデータベースと照合させる中でそれぞれの仕方で反応し、いかに言語化して他人にその面白さを伝えようとしたところで、人はどこまでも自分の読めることしか読めない。たとえ図書館経由で全く同じ紙の束が回し読まれようとも、私にとっての『カフェでよくかかっているJ-POPのポサノヴァカバーを歌う女の一生』と他の借り手においての『カフェでよくかかっているJ-POPのポサノヴァカバーを歌う女の一生』は決して同じ現れ方をしていない。書き手と読み手の間に別段何のキャッチボールが成り立っているわけでもないように、面白いよ、と本を薦めて、面白かったよ、と後日返ってきたところで、何が共有されていることもない。売り手と買い手の間に通貨以上の何が行き交うことができるだろう。

 ところが、時にその不毛なやり取りの中に、ある者は限りなき幸福感を、天職を見出す。

 本当のところ、他人の反応なんてどうでもいい、自分が満足できさえすれば。そういうヤツだけが他人にとっての「素敵」な誰かになれる。

 誰と何を分かち合うこともない、分かり合うこともない、世界はそうしてできている。 

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com