他山の石

 

 時は明治の世、「帝大法学部を出た“学士さま”の身をもって、望みさえすれば、三井・三菱であろうが日銀・大蔵省であろうが、あるいはまた裁判官・検事であろうが、精選されたエスカレーターが」その男、桐生政次のち筆名悠々の針路にはいくらでも用意されていたはずだった。正宗白鳥徳田秋声らとの間に結ばれた深い交友をもって、あるいは彼は文壇にその名を深く刻みつけることだってできたかもしれない。しかし彼は悲しいほどに「半年病」を患っていた。官吏も駄目、民間企業も続かない、大学院もすぐに辞めた。理想主義文学――あくまで自然主義ではなく――への憧れを抱きつつも、何者にもなれない己に煩悶していた青年が、たまさか転がり込んだ東京朝日で寄せたたった一本の匿名コラムをもって一夜にして花開く。「高校以来、悠々は小説に評論に伝記にと、食うために多くの筆をとってきたが、……皮肉にもいま、食うためというよりも、記者としての自己表現をめざして匿名で書いたこの文章に大きな反響」を呼んだ。そこには「悠々の長い半生が蓄えた文章力が最も活力ある形で結晶していた。多角的な関心、外に向く正義感、歯切れよいセンテンス、そしてたしかな感受性に裏うちされた批評眼、それらはすべて新しい時代の新聞論説になくてはならぬ文体を形づくっていたといってよい」。時代に追いついたのか、時代が追いついたのか、コラムニストの地位に辿り着いた彼は、まさしく「水を得た魚」だった。

 

 乞われて着任した信濃毎日新聞主筆としてのハイライトは、明治天皇崩御を受けての乃木希典の殉職をめぐって綴られた「陋習打破論」なる寄稿だった。他の新聞の論調が「驚愕と戸惑いから……手放しの賛美」へと変わっていくそのさまは、三日にもわたるコラムへと悠々を駆り立てずにはいなかった。彼が典拠するのは五箇条の御誓文、わけても第一条「陋習を破り、天地の公道に就く可し」だった。主君への忠誠を死をもってあらわさんとする乃木のふるまいは、「如何なる点より見ても、『天地の公道』に反している愚挙である」。切腹を典型とした封建制度の「陋習」との決別を宣言した陛下のために自らの命を捧げようとはなんたる論理矛盾かと彼は喝破する。忠臣は二君に仕えずとはもはや「陋習」に過ぎない。新たな時代における「公道」が指し示すのは、我々は生きて「明治天皇の忠臣であると同時に、今上天皇の忠臣でなければならぬ」。重ねて言う、「殉死は昔時武士道の一形式であったかも知れぬ。併しながら大正の世の進化した武士道から見れば、知恵のないこと甚しい悪行為と云わねばならぬ」。

 次いで転任した、よりにもよって大島ファミリー率いる中日新聞の前身、新愛知新聞においても、令和ならぬ元祖米騒動に際して、悠々はやはり苛烈な檄をしたためずにはいられなかった。富山に端を発し全国へと燎原の火のごとく広がる抗議運動に対して新聞への箝口令をもって沈静化を図らんとする時の政権に向けて、彼はその義憤の限りを紙面で堂々宣誓した。「歴代内閣中にはずいぶん無智無能の内閣もあったが、現内閣のごとく無智無能なる内閣はなかった。彼等は米価の暴騰が如何に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず、甚しきに至っては応急の救済法すらも施し得ずして、食糧騒擾の責を一にこれが報道の責に任じつつある新聞紙に嫁し、これにかんする一切の記事を当分安寧秩序に害ありとして、掲載禁止を命ずるが如き、誰がこれを無知無能と言わざるべき」。仮にもしこのまま実効性のある政策を打たなければ、そしてそのままメディアが忖度をもって追従すればどうなるか。「食料騒擾に関する新聞紙の一切の記事を禁止することによって、却って食糧騒擾を扇動し、これをして益々拡大せしめ、益々危険性を帯ばしむるの愚を演ずるものと云わねばならぬ」。そして筆はついにメディア論へと及ばずにはいない。「事件、事実は新聞紙の食糧である。しかるに現内閣は、今や新聞紙の食糧を絶った。事ここに至っては、私共新聞紙もまた起って食糧騒擾を起さねばならぬ。……今や私共は現内閣を仆さずんば、私共自身が先ず仆れねばならぬ」。

 筆者に言わせれば、「主筆とは、交響楽団の指揮者のごとく、その指揮棒によって新聞紙面の隅々にまで主筆の呼吸がふきかけられる」、そんな存在である、そんな存在であらねばならない。必ずやそのタクト一閃は、オーケストラのその背後で耳を澄ませる、読者という観客席をも震わせずにはいない。

 今の世にこれほどの義憤をもって闘ってくれる新聞があるだろうか。否、桐生悠々の他にこの使命感を綴り得たコラムニストがかつていただろうか。

 

 由らしむべき、知らしむべからず、そんな「陋習」に怒れる彼は、近代主義者であると同時に、あるいはそれ以上に天皇主義者だった。忠臣たるものとして「天地の公道」を説く彼の源泉とは、常に変わらず五箇条の御誓文であり続けた。

 彼が変わったのではない、世の中が変わった。

 1933年、関東防空大演習を受けて彼は「いま言わなければならないこと」を、復帰した古巣信濃毎日の紙面に記した。

「将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、是の時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである」。

 重箱の隅をつつけば、戦闘機と爆撃機の区別がついていないと言えて言えないことはない、しかし、安全保障としていちいちがごく冷静で現実的でまっとうな指摘である。

 ところが12年後に図らずも成就するこの「嗤」いが、不敬との咎を受け、退社を余儀なくされる。

 

 在野を強いられた老境の彼は、それでもなおジャーナリストであり続けた。彼は自ら立ち上げた会員制の雑誌『他山の石』において、当局からの発禁や削除という妨害に幾度となくさらされながら、それでも書かずにはいられなかった。

「今日の日本には、徳川時代のそれのような鎖国主義者はいないけれども、漫に皇国の精神を高調して、精神的に太古の昔に還らんとしつつあるものがある。五カ条の御誓文に背いて、広く智識を世界に求めざらんとする鎖国主義者がある。従って、万機を公論によって決せず、自己階級の偏見によって、これを決せんとするものがある。そしてこれが為にアメリカから、ヨーロッパからも排斥されんとしている。これが非常時なのだ」。

「天地の公道」が彼にこう書かせずにはいなかったのである。

 その廃刊の告知にあたって、「小生の痼疾咽喉カタル非常に悪化し流動物すら嚥下し能はざる」その肉体を振り絞って彼は辞世の句をうたう。

「この超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」。

 

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