欲しがりません 勝つまでは

 

 

「あれ食べてみたい」

 ブラウン管を指さしてそう母親に言ったのは何年前のことだろう。

 その時、テレビに映っていたのが『独眼竜政宗』で、渡辺謙扮する伊達政宗が、お椀から湯漬けを、豪快に掻き込んでいたのを覚えている。……

 それは、その年頃の男の子にありがちな、プリミティブな「強さ」への単純でまだ洗練されていない憧れと、不可分なものだったと思う。そして、彼らが食べているものを食べてみることが、憧れている「強さ」を自分に取り込むための手っ取り早い手段のように思えた。

 母親は苦笑しながら、炊飯ジャーからお椀にごはんをよそい、それにお湯をぶっかけた。

 水っぽい。

 味がしない。

 正直、食えたもんじゃない。

 それでも、その食べ難さこそが、自分が「強さ」へ近づいている証拠のような気がして、とても嬉しかったことを覚えている。……

 私が小学生の時に感じた「食べ難さ」なんて目じゃないほど、「食べ難い」ものをどうにかこうしか飲み下して、戦国時代の人々は生き延びてきたのだ。

独眼竜政宗』から30年あまり。年号も「昭和」「平成」「令和」と三つも経た。そして、今さらながら、子供の時の「あれ食べてみたい」をやってみたくなった。

 

 この表題が謳う「まずい飯!」、いささかの注意を要する。

 というのも、現代の水準に照らしてみれば当時においては重宝されていたグルメもね、といった類の話ではない。トピックとして取り上げられるその少なからぬものは、冷蔵技術や輸送手段も整わない戦国の世においてすら酷評を受けた代物である。分かり切った上であえて手を出しては、そのまずさを確認する、そのうわべのみをさらえば、ほとんど当たり屋稼業に近しい。

 

 例えば赤米、といってもマクロビやらでかえってもてはやされる今日のものとは違う。「殆ど下咽に耐えず 蓋し稲米の最悪の者なり」とさえ痛罵されるような、そんな赤米である。例えばみそ汁、ただし調味料は大豆味噌でも米味噌でもなく糠味噌。井伊直政をして驚愕せしめたそんなみそ汁。

 編集者にでも用意させて、ただどこぞで入手したものを実食してみて、そのインプレッションを記すのみであったならば、本書はさしたる読みごたえもない、単なる悪趣味の域を出ない代物に留まっていただろう。

 しかし、空腹は最高の調味料とでも言わんばかりに、筆者は自らの身を差し出してみせる。赤米を精米すべく、己の腕を痛めつけること計12時間、ペットボトルに菜箸でひたすらに搗きまくる。

 信玄の発明かはともかくも、軍の糧食を支えたことは確からしい「陣立味噌」も、当時のレシピに従って自らの手で作ってみる。そしてもちろん、実際に口に運ぶ。さてその味は――

 

「まずい飯!」と分かっていて、あえてそこに手を出すという選択肢が用意されているということに、翻って現代における贅沢の意味を考える。

 筆者の試みを支えたのは、単に個人的な好奇心に留まらない。古文書をアーカイヴズとして保存する学芸員もいれば、それらを読み込んで紐づけた研究者もいた。さらには、耐病性や食味からして産業としての農業にはあらゆる点で堪えない赤米をあえて今日において残し続ける好事家もいる。

 実用性のみに鑑みれば、なくてもいいとの指摘には誰もが首を縦に振らざるを得ないところだろう。400年前の戦陣の知恵として今日の食卓に蘇ることもなければ、令和の農業が当時の品種をもって活性化されることもない。ましてや「まずい飯!」と来れば、地域活性化を錦の御旗として掲げる伝統ブランディングの具にもなりそうもない。

 それが食べられる。食べようという突飛な思いつきに応えられるだけの用意が備えられている。そんな彼らの好奇心をどうして豊かと称さずにいられようか。

 

 にもかかわらずやはり、そこからはやはり貧しい味がする、貧しい味しかしない。

 切り開かれた田に真っ先にまかれたのが、大唐米をはじめとする赤米だった。彼らは、戦国末期から近世にかけて、新たな国土の創造のために働きに働き、役目が終わると、雑草同然の扱いを受けながら、静かに歴史から消え去っていった。

 その姿は何かに似ていないだろうか?

 そう、戦国時代の雑兵たちである。

 見た目が武骨で、生命力は強靭、艱難辛苦に耐えて、新たな時代のために命を的にして闘い、平和への埋め草となって消えていった人々。

 彼らの姿に、赤米の姿が重なる。

 実食しようにも、今日においては誰にでもできるものではない。ただし、その経験は活字という仕方を通じて想像の中で複製される。そして知るだろう、「まずい飯!」と分かり切った上で「まずい飯!」を食わせる、食わされる、「ぜいたくは敵だ」と気勢を上げる戦乱の世の民に幸福などひとつとしてないことを。