プロミシング・ヤング・ウーマン

 

 

長き夜の 遠の眠りの みな目覚め 波乗り舟の 音のよきかな 

 

 和歌のリズムを持ちながら、回文構造をなす。主人公の絵子を取り巻く、変わりようもない円環構造を示唆する。

 大正末期の福井の片田舎、尋常小学校を出たきりの絵子は、農業を営む両親の手伝いに忙殺される日々。「そんな百姓の家の子どもが、なぜ本など好んで読むようになったのか。それは皆の訝るところだったし、絵子自身にも謎だった。絵子は文字を読めるようになると、字の書いてあるものはなんでも片端から読むようになった。飢えた子どもが飯を求めるように、もっと、もっとと読もうとした。いつでも腹を空かせていた」。

 そしてその夜、内職を促された絵子はつい不満を口にする。

「生きていくために働いてるのに、全然生きてるって思われんわ。とうちゃんもかあちゃんも、なんのために生きてるんや」

 そして彼女は父に殴られ、家を追われる。

 

「考えることは絵子にとって、本を読むことと繋がっていた。文字から成る書物の冷静な思考と地続きのものだった。いっぽう声は、ここの方言は、ここの生活そのものだった。訛りに乗せて話そうとすると、言葉は詰まり、思考は崩れて、まるで煮すぎた餅のように、ぐずぐずとかたちをなくしていった」。

 そして流れ着いた住み込みの工場で、絵子は「書物の言葉」を話す同僚と出会う。間もなくその彼女から古い雑誌を手渡される。『青鞜』という。

 

 現実に意味はない。

 虚構には意味しかない。

 

 同じところを行きて戻りつ、回文によって暗喩されるだろう、ループをひたすらに繰り返すだけの現実――もっともそれは産業構造の転換によって早晩朽ちゆくことを運命づけられている――を「書物の言葉」によって変えていく。

「ないものをあるように、あるものをないように」。

 絵子の眼前に横たわるだろう家父長制の苛烈、搾取の卑劣を変える力は、「声」によって表されるだろう現実のどこを探しても見出されない、見出されるはずがない。焚書に憑かれた世界にできることといえば、いたずらに同じ失敗を繰り返すことだけ。その失敗は唯一、「書物の言葉」という「ないものをあるように」する仕方を通じてのみ克服される。ゆえに彼女は長じて、生む機械たることを運命づけるパターナリズムの絆を拒絶し、代わって、自らの決定権も与えられぬままに生まれ落とされた存在へのせめてもの慰めとしての「書物の言葉」に基づく教育を目指す。

 物語の舞台かつ筆者の出身という福井の地は、山に閉ざされた寒村と、そして開けた海を持つ。極東の哀しき港から延びるその海路はウラジオストク、さらにはその先の大陸、西洋へとつながる、あたかもそれはヘーゲルの「自由」を示唆するように。偶然か、必然か、この参照関係は男‐女を止揚する登場人物の存在を通じて改めて確認される。

 対して例えば三島由紀夫は『絹と明察』に夢見ただろう、ひとたびの「書物の言葉」への屈従の後の、「声」なるものの復権を。愚かにも。

 

 フォークロアはもはや世界に居場所を持たない。

 すべて現実は、ただ書き換えられるためにある。