A Treatise of Human Nature

 

 

西洋音楽史において、もっとも重要な作曲家は誰か?」。……

 以下では一つの試みとして、16世紀末から17世紀初頭に活躍したクラウディオ・モンテヴェルディをもっとも重要な作曲家として挙げてみたい。……

 だがこれは奇をてらった選択ではまったくなく、現代のわれわれが享受している音楽からさかのぼって考えるときに、モンテヴェルディが敢行した一つの“掟破り”こそが現在のわれわれの音楽の形式を最終的に仕上げたものだからである。……

「属七の和音/ドミナント・セブンス」の特別な扱いを可能にしたのが、実は今から400年前のモンテヴェルディであった。

 過去の事例に「たら・れば」の仮定の話は禁物だが、モンテヴェルディがこの果敢な一手を打ち出していなかったら、現在あるような音楽文化はありえなかった、あるいは別物であったろう。およそあらゆる歴史的考察は現代の視点からなされることから逃れられない以上、21世紀初頭の今でも、モンテヴェルディのこの一手に注目する価値は十分ある。

 

「神学のはしため」と謗られた哲学が、『方法序説』の「われ思う」をもって近代の新たな扉を開く。

 奇しくもルネ・デカルトの誕生に合わせるように書かれた《つれないアマリッリ》の革命は、どこかその軌跡に似る。

 古来、西洋音楽なるものは、「必ず協和和音が不協和和音に先立って不協和の準備をせねばならず、そしてその不協和音程はしかるべく協和和音に回収されるように連結されねばならな」かった、「そしてこの論理は疑いなくキリスト教神学に裏打ちされたものであった」。ところが、この「構造にモンテヴェルディは果敢にも、属七の和音における不協和音程の自由な使用法という、後の音楽のあり方のためには不可欠な革新をなした」。

 ソ・シ・レの織りなす神学的完全性に、モンテヴェルディはあえて「属七の和音」ファを加えた。結果何が起きたか。「音楽には初めと終わりがあり、その双方の役を果たすものこそ主音であり、主音に始まり主音に終わるからこそ我々の音楽体験は完結し、喜びを得るという予定調和の形態を有している。主音〔この場合はソ〕で終わることが音楽にとってどうしても必要とされるのであれば、その半音下に位置する導音〔ファ〕以上に、その完結の喜びの期待を高めるものはない」。

 ザルリーノはこの導音を「塩」と呼んだ。

「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか」(マタイ5:13)。

 皮肉にも、神学的な音楽構造の掟を破ったモンテヴェルディをもって、以後、音楽は「塩味」を知る。

モンテヴェルディの革新とは、ただ単に不協和を内包する属七の和音の登場を従来の仕方よりも自由にしたと言うに留まらず、その先に構造的必然性として控えている主音/主和音の到来をもより自由にした[]……それは主音へ向かうフレーズや楽曲の締めくくりをより柔軟性をもって作曲することを意味した」。

 約束事から解放されたのではない、「塩味」を含む別の約束事が見出されたのだ。

 

 予定調和をぶっ壊す。

 そして例えばリヒャルト・ヴァグナーは別の約束事を発案し、それを実行に移した。

「不協和は協和に解決され回収されることが調性の語法のスタンダードだったわけだが、……不協和に不協和を連綿と続けて連結することで、解決を目指さずにそれら不協和の和音間を何度も何度も行ったり来たりしている感」を曲に与えることができたなら――

「かくして調性には死亡宣告書が突き付けられることになった」、一見。

「しかしやはり現代のわれわれが依然として西洋起源の和声的調性音楽を耳にし続けていることは目の前の現実として動かしがたい事実である」。 

「塩」をひたすら振り続けた末、いつしか「塩」は「塩味」を麻痺させた。

 塩梅はすべからく人体の生理食塩水濃度に準じる。

 

 例えば絵画の世界においていつしか、三次元のシーナリーを二次元平面へと写実すべく、遠近法なる手法が発明された。他にも鑑賞者に訴える「自然」の写し取り方は可能なのかもしれない、さりとて人間の視覚の「性質」をめぐる経験知的探究としてのartは今日に至るまで、遠近法という無二の名手法を塗り替える別の仕方を見出せずにいる。写真の登場をもって退潮を余儀なくされた写実主義に代わって登場せんとした、反遠近、非遠近の「自然」の模倣といえば、結局のところ、タイトルをもってはじめてそこに描かれているらしい何物かを知るような始末でしかない。

西洋音楽の正体』という、いささか大上段にも程があるこの表題において展開されるテーマは、実のところ、必ずしもモンテヴェルディ論に終始するものではない。その焦点はむしろ、この密やかなる大作曲家によって切り開かれたパラダイムを克服する目途を持たない、人間のnatureにこそある。

「自然」は必ずしも遠近法のみを支持しない、しかし、人間の「性質」は事実として、それがたとえ消去法的な結果であったとしても、遠近法をベターなチョイスとして選り残す。同様に、なるほど「自然はヴァイオリンを作らない」、ただし人間の「性質」はポスト・モンテヴェルディの和音や調性を更新する代替案を未だ知らない。

 人間の耳は440Hz442Hzの差異を聞き分けられるほど鋭敏にはできていないし、ましてや超音波を捉えて聴覚情報へと変換するシステムを持たない。無数のグラデーションのはずのプリズムに概ね虹の七色しか見ることができないように、オクターブの間で音階を近似的に切り分けていけばひとまず12くらいに落ち着き、さりとて似て非なるドとド#を重ねられれば、絶対音感など持たずとも互いをノイズと退け合うストレスにいたたまれなくなる。

 これらいずれの「性質」も「自然」の指示するところではない、しかし実際として、人間はそういう風にできている、らしい、経験主義という日々の人体実験による限り。別建てのアプローチに基づくmusicsは理屈の上では無数にあり得る、ただし、調性と和声によるmusicを超克するものは少なくとも現状見えない、それはちょうど、それぞれに必ずしも起源を共有するでもないらしいlanguagesが、統語法などの機能性に基づいて共通のlanguageへの翻訳へと開かれているように。神学から解き放たれて人間中心主義を志向したモンテヴェルディの末裔が、その結論について不服を覚えるところはない。