おみやさん

 

真夜中の北京

真夜中の北京

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 19371月、日本軍の侵攻により陥落直前の北京は狐狸塔にて、女性の惨殺死体が発見される。

 少女は溝にそって、頭を西に、脚を東に向けて横たわっていた。タータンチェックのスカートと血だらけのウールのカーディガンを辛うじて身につけている。靴は少し離れたところにあり、片方にハンカチが詰めこまれていた。

 ハン警視正はスカートを引っ張って、むき出しの太腿を覆った。容赦なく刺され、殴られた顔を見ただけでは、外国人か中国人か見分けがつかないが、金色の髪と白い肌から、人種が分かる。二人の警察官が体を少し持ち上げ、トーマス行政官がその下に押し込まれていたシルクのシュミーズを引っ張りだした。少女の体は、いたるところが切りつけられ、切り裂かれていることが見て取れた。ナイフによる傷は深く、ハンとトーマスが見たところ、夜の間に黄狐が肉をむしりとったのではないかと思われる傷もあった。

 ハン警視正は胸の傷を確認しようと、カーディガンのボタンをはずし、目の粗い綿製のブラウスを取り除いた。その瞬間、ハンもトーマスもショックで飛びのいた。死体は胸骨全体が切り取られ、肋骨がすべて折られて、体腔がむき出しになっていた。そして強烈な臭いを放っていたが、奇妙なほど血が出ていなかった。血は、夜間の凍結で硬くなっている地面にも流れていなかった。どこか別の場所で抜かれたに違いない。

 ハンもトーマスも、切断された死体を数多く目にしてきた。二人とも、いくつもの戦闘で残虐行為を目にしてきた。ハンは中国北部の軍閥との戦いで、そしてトーマスは若い学生通訳として働いていた英国公使館が1900年の義和団の乱で包囲されたときの血みどろの戦いで。しかし自分たちの目にしているものが、口にするのも恐ろしいものだと悟った二人は、ただただ顔を見合わせていた。少女の心臓がなくなっていた。肋骨が折られた胸郭から、むしりとられていたのだ。

 

 間もなく被害者の身元が判明する。天津のグラマー・スクールの生徒、パメラ・ワーナー。

 幼くしてロシア人の母に捨てられた彼女を養子として引き取った父エドワードは元イギリス領事、退官後もそのまま中国に留まり、文献研究に明け暮れる隠遁生活を営んでいた。

 ところで、文化人としても高名を博していたエドワードをめぐっては、さまざまな噂話が交わされていた。

 若き頃に僧侶との口論の末に鞭を取り出し、それがもとで左遷を被る。九江の地では、領事とともに兼任していた裁判官として、とある殺人を闇へと葬ったことでバッシングを受けた。そして決定的な事件は福州で起きた。社交クラブでの大立ち回りの末、税関職員を鞭で打ち据えたのだった。この廉により、彼は外交官の職を解かれた。

 わけても人々の興味をあおったのは、その妻の死をめぐるものだった。わずか35歳にしてこの世を去った彼女の死因は、鎮痛剤ベロナールの過剰摂取によるものだった。「人々は首をかしげた。そして自分なりの結論に到達した。ベロナールを使った自殺には、殺人話がつきものだ」。

 

 スキャンダラスな想像力を喚起することにかけては、娘も負けてはいなかった。

 聞き取りを進めていく中で捜査陣に浮上したのは、およそ対照的なパメラの肖像だった。

 天津から取り寄せた写真に捉えらえた彼女は、典型的なグラマー・スクールの女子生徒。野暮な髪型にもっさりとした制服、その表情には無気力がにじむ。「礼儀正しく、行儀がよく、学校がみずからを高く評価しているため、どこかよそよそしい」。

 対して帰省中の北京の彼女と言えば、「少女というより女性だった」。トレンドのヘア・スタイルにドレス・ファッション、メイクを決めた顔立ちからはきりりとした自信が溢れ出す。

「天津でパメラを知っていた人たちは、新聞に掲載された魅惑的な写真にぎょっとし、北京でパメラを知っていた人たちは、天津グラマースクールの制服を着たパメラがあまりにも地味でさえないことに驚いた」。

 

 2011年に原著が出されたこのテキストの何が驚異的といって、はるか昔の事柄を扱うにしては異例なまでに緊迫感みなぎるその文体にある。そもそもからして、1937年の事件を記憶している関係者へのヒアリングで引き出せることなどたかが知れている。舞台をめぐるといっても、まさか今日までその痕跡が残されていようはずもない。さりとて凡百の物書きが手を染めるような、再現という名の妄想をたくましくするでもない。

 それなのに、なぜにかくもソリッドなテキスト構築が可能だったのかといえば、それはとある人物が事件の解明を求めてイギリス当局へと送り続けた独自捜査の資料にその過半を負う。

 そしてそこにこそ改めて、本書の身の毛もよだつ戦慄は起因する。この一連のレターが物語っているのは実のところ、追及に対して何某がこう証言した、とこの書き手が綴って寄こした、というに過ぎない。本当に何某がそう述べたのかを裏づけるものなど事実上ない。時としては、その何某の実在を証明するものすら持たない。ましてや、杜撰を極めた初動捜査の結果、物的証拠と呼べるものなどもとよりない。

 事件そのものが大いなるフィクションに過ぎない、あるいは底が抜けているかもしれない、というその危うさゆえにこそ、殺人そのものがはらむ猟奇性を超えて、本書は物の怪の震えを宿す。

 舞台もまた、そのいかがわしさを格段に引き立てる。国民党と共産党の相克、戦争の脅威、経済崩壊、薬物汚染に自壊する中国の内側に、我関せずとばかりに優雅な暮らしを営む空中楼閣のごとき外国人コミュニティが横たわり、虚々実々の伏魔殿ではパメラの死を無化せんとばかりの陰謀渦巻く。これほどまでに詰め込まれた混沌を、たかが一作家個人の想像力によるフィクションが用意することができるだろうか。

 謎解きの華麗によって引きつける類のミステリーとは明らかに趣を異にする。真相として提示される仮説を見ればあるいはフェイク、しかしその結論にまでこぎつける執念は紛れもなく本物。

 闇の深さの一点押しで果てしなく読まされてしまうミステリーのかたちがここにある。