「ミュンヘンは輝いていた」

 

 ちいさな本だが、これが生まれるまでに、ちょっとした経緯があった。『トーマス・マン日記』全十巻の訳業が、二十年余を要して九巻目まできたときだった。編集担当の女性から応援役を依頼され、『マン日記』をめぐる短いエッセイを書いた。一回のはずが三回になり、それでお役御免のつもりが、あらためて全体にわたり、マンの日記の検証をたのまれた。……

 長大な、そして特異な「著作」の検証をする。断わる理由など、どこにあろう。……

「芸術家と社会」といったエッセイで述べているところによると、芸術家を動かすものはモラルでも社会状況でもなく、「美意識と遊び心」だった。芸術家をかりて自分を語っているのはあきらかだ。

 その人がいや応なく、政治的発言をしなくてはならない状況に追いこまれていく。「民主主義の擁護」を掲げた巡回講演にも出かけていった。みずから望んだ役まわりではなかったかもしれないが、しかしもののみごとにやってのけた。

 いかにも自分に責任をもった信念の人を思わせる。強い思想性をもって自分の言葉と行動を一致させ、ナチズムの野蛮に一歩も引かず対抗した。……

 そんなさまざまなことを思いながら、長大な日記に目盛りを入れるようにして書いていった。具体的には紀伊国屋書店の季刊誌『scripta』の2009年冬号から2015年夏号にかけてである。六年たってペンを置いた翌年に、『マン日記』全十巻が完結をみた。

 ナチス・ドイツに人一倍の肩入れをしたノーベル賞作家クヌート・ハムスンより始めて、死の直前の肖像画家とのやりとりで終えた。日記のちょっとした記述にモチーフを見つけ、時間軸にそって、マンの見方をたどりながら人と出来事を取り上げていく。亡命者という特殊な位置から同時代をつづる。たしかに奇妙な著作であって、日一日と書き継ぐ以外、きわめて無限定な自由である。いかに烈しい批判を向けようとも、いかなる現実的効用をもつわけでもない。隠蔽と秘匿の点でも自由であって、見張っているのは同じ筆者の自分だけ。

 

 バルト海に面したドイツ北部の古都リューベックは、マンの生まれ育った街にして、半自伝的長編小説『ブッデンブローク家の人々』の舞台としてつとに知られる。その街が19423月、イギリス軍からの爆撃を受ける。後世に「連合国側の反攻の最初ののろし」として語り継がれるこの空襲を耳にしてまず書いたのは「ほとんど不可能」、文字通り言葉を失う。そして引き裂かれる思いの中で綴る、先の大戦における報復のエスカレートがまたもや繰り返され、一般市民や歴史遺産が灰燼に帰されるその不毛を。

 ファミリーの破産をもって流れ着いたミュンヘンの地は、マンにとっての第二の郷里、『ブッデンブローク』も『魔の山』もこの街で著され、そしてノーベル文学賞歓喜にも与った。そしてその街は、絶望の淵にあってナチス台頭の根拠地と成り果てた。

 自らのハイマートが耐えがたきまでに戦争と、ナチスと結びつけられていく。流浪の亡命者として、時代の焦燥に震えながら、それでもなおマンの内に何かが胎動せずにはいない。

「仕事をすることができるために生きている――その逆ではない」。

 娘は父を評してそう言った。そしてマンは自らその証明を図るかのように、「仕事」すなわち小説を目指す。

 このテキストの真骨頂は、『ファウストゥス博士』に現れる。「現実と虚構が足を結び合って二人三脚」するように、構想がかたちを取りはじめる、「前衛的作曲家の生涯をたどる物語が同時代のドイツの歴史とかさなってくる」。遠くアメリカの地で「じりじりと凋落の兆しを示しはじめたナチス国家を見やりながら、天才的な作曲家に悪魔と結託させ、欲望をとげさせてのち、やがて没落の道をたどらせる」。

 小説を語るマンにおけるその熱量が、筆者におけるその熱量が、本書の読者へと脈動として伝播する。

 

 皮相なもので、「ブームはたいてい、まもなくウソのように収束するものである。戦後、半神のように崇められていた反ナチズム作家トーマス・マンに対して、死後二十年にもなる無名作家フランツ・カフカは、輝く太陽の中の一点のシミのようなものだった。だが数年のうちに黒点が太陽を覆うほど大きくなっていく。/……もしかすると、おぼろげな予感があったのかもしれない。まったく自分の知ることのない人物が、およそ異質の小説を書いた。無名のまま忘却寸前だったのが、にわかにあらわれ、広範な読者を見出している。五十年余のキャリアをもつノーベル賞作家には不審でならない。自分とは何がどうちがうのか。もしこの異質の作家が『現代』ならば、自分は同じ位置にいることはできず、すでに終わった過去の作家に甘んじるしかないではないか」。

 老境にあって、嫉妬や不安に煽られつつも、どうにも認めずにいられない、「カフカが私を捉えて離さない」ことを。

 

 そして忘却の彼方から現代の読者はトーマス・マンを再発見する。

「著名人が雪崩を打つようにして新しい権力に迎合する。ワーグナーリトマス試験紙のように人々の色分けをした」。「『事実』を捏造し、大々的に言い立て、偽造が明るみに出ると転嫁し、そののち居直って逆襲に出るのは宣伝省の常套手段だった」。「ことあるごとにナチズムの脅威と謀略を語って、民主主義の危機を説いてきたのに、八年目にしてまさに脅威と謀略が高らかに勝ちどきを上げるのを目のあたりにしなくてはならない。世界がすさまじい音を立てて崩れていくというのに、いまこのとき、それに抗する力も方策も見つからない」。まるでリプレイのような今日を生きる、生きさせられる。

 

 マンは性急で苛立っている。ナチス思想を否定するどんな声も聞かれない。ヒトラーによる政権掌握に手をかし、九十パーセントをこえる国民投票で歓呼し、集団殺戮、破局、すべてを容認した。その罪を認めるどんな言葉も語られない。

 ファシズム支配の終焉、囚われ状態からの解放と新しい始まりを迎えて、日記の書き手は苦しい思いで書きとめなくてはならなかった。何もかもが過ぎ去ったとき、どうしてあんなことを許したのかと、他人ごとのようにして人は不思議に思っている。個人はいかに無力で、良心について考えるのがいかに難しいことであるか。ある体制を容認し、むしろ有利にはかるのは「第一級の犯罪行為」だというのに、それを認めるどのような言葉も聞こえてこないのである。