作家である「僕」ことウィリー・アシェンデンのところに旧友のロイから一本の電話が届く。ランチを共にしたい、との旨。さて用件は何だろう、としばし推察をめぐらせる。
会員制クラブのがらんとした個室で中年男二人で差し向かい、「食事の注文の仕方となるとロイの右にでる者はいない」そんな彼が吟味したフレンチを食す。あれやこれやと回りくどい雑談を重ねた末、果たして本題は、「ヴィクトリア朝最後の作家」エドワード・ドリッフィールドだった。この「現代最高の作家」を偲ぶ伝記をしたためるべく、駆け出しの頃の彼と交流を持っていた「僕」から逸話を引き出したい、それがロイの狙いだった。
別れ際、彼が切り出す。
「君は最初の結婚相手を知っていたのだろう?」
『お菓子とビールCakes and Ale』。この表題はすなわち、ドリッフィールドのふたりの妻を暗喩する。
最初の出会いは、学生時代に一時帰省した郷里ブラックスタブルに遡る。牧師を叔父に持つ「僕」と、飲み屋の店員だった妻を持つドリッフィールド、つまり階級を異にするふたりが交わる。自転車の乗り方からはじまったお坊ちゃまへの手ほどきは、直接に文学論を戦わせることはなくとも、やがて小説への影響も持たずにはいない。叔父やその周辺に言わせれば、ドリッフィールドの作品に登場するのは、「世の中に下卑た、下品な人」、しかし「ぼく」は彼の家に出入りして、そうした人々とも関係していく中で、自らの属す上位カーストの軽薄さにやがて目覚めることとなる。その雰囲気を醸成したのはもちろん、「ビール」こと妻ロウジーだった。
ところが時は流れ、文壇での地位を確立するにつれ、ドリッフィールドもやがてそうしたクラスの住人と化していく。果たして何が変わったか? そう、妻が変わった。風流人のロイをしてうならしめるこの「お菓子」の高貴なる社交術は、夫のパブリック・イメージをも刷新してみせた。「僕」は彼女に乞われてブラックスタブルの邸宅を訪れる。かつて父が管理人として仕えたその家を、エドワードは念願かなって買い上げた。「トッテナム・コート通りの家具店の見本みたい」、つまりは成金趣味ではりぼてのその内装を、妻エミイは人知れずこっそりと上級品と入れ替える。いくつもの作品を書き上げた思い入れひとしおの机すらも、いつしか「優れた時代物」に変わり、そうして出来上がった書斎を訪れる。「お膳立ては完ぺきだった。しかし、なぜだかわからないが、部屋は奇妙に生気がなかった。すでに、博物館のカビ臭さが感じられた」。
変わってしまったエドワード・ドリッフィールドを映し出すこの試みは、実のところ、まず何よりも変わってしまった「僕」自身を映し出す試みに他ならない。
作中、不意に独白する。
「この本を第一人称で書かなければよかったのにと思う。……
小説家は時に自分を神のように思って、作中人物についてあらゆることを述べようという気になることもある。また、時にはそういう気にならないこともある。後者の場合、作者は作中人物について知るすべはなく、作者自身が知っていることだけを述べることになる。人は年とともにますます神とは違うと感じるものだから、作者が加齢とともに自分の経験から知ったこと以外のことは書かなくなると知っても僕は驚かない。第一人称はこの限られた目的に極めて有効なのである」。
「神」は登場人物を作る、「第一人称」は登場人物によって作られる。あくまでこの小説のフォーカスは、一見狂言回しに徹しているはずの「第一人称」としての「僕」へと向かわずにはいない。エミイとローズによってエドワードが作られたように、記述される周辺によって「僕」もまた作られる。
その象徴的なシーンが、ロウジーをめぐって描かれる。
ブラックスタブルを夜逃げしてから5年、作家として名を成したドリッフィールド夫妻とロンドンで再会した「僕」は、彼女の美しさにすっかり打たれる。パーティーに出入りしていた画家によるロウジーの肖像画に至っては、「誰かが鋭いナイフをそっと僕に差し込んだよう」な「痛いのだが妙に良い気分」を植えつけずにはいない。振り返れば初対面のときには、「彼女が綺麗かどうかなどまったく思いもしなかった」というのに。
そして件の肖像画と数十年の時を経てまみえることとなる。
「これこそ僕の記憶にはっきりあるロウジーだ。古風な服装にもかかわらず、彼女は生き生きとしていて、漲る情熱におののいているようだった。キューピッドの矢を進んで受けようと構えているようだった」。
しかし、ロイや「お菓子」の反応は極めて酷薄なものだった。
「がっちりした体の田舎娘」。
「色白の黒ん坊」。
そしてまるで合わせ鏡のような、玉手箱のような、とんだクライマックスを本書は迎える。
エドワードを捨ててアメリカへと駆け落ちし、その後亡くなったと風の噂に聞いていたロウジーはまだ生きていた。ニューヨークのアパートメントに彼女を訪ねる。壁にかけられていたパートナーの写真にふと気づく。
「僕」の目には「めかし込んだパブの主人」、しかし「ビール」に言わせれば「完璧な紳士」。
そのいずれが真相を示しているのかなど、藪の中の住人である「僕」なる「第一人称」はまさか知る由もない。
それでもなお、「僕」は書かずにはいられない。なぜならば、「いかなる感情でもいかなる苦しみでも、それを文章に書いてしまって、物語の主題やエッセイの添え物として活用しさえすれば、すっかり全部忘れられる。自由人と呼べるのは作家だけである」のだから。