ある小説家の生涯と弁明

 

 それは気乗りのしないパーティーをキャンセルするために、その小説家、エミール・ステーフマンが何気なく思いついた一言に過ぎなかった。

 

〈身内のよんどころない事情〉。

 この言葉はもはや消し去ることはできない。

 彼の作品がいつの日か、万が一、自らの望みに反して大衆の関心を集め、伝記作家が彼の死後、彼の人生について調べ出したら……メールボックスをくまなく探し、このミステリアスな言葉を見つけたら、伝記作家はきっとなにかを掴んだと確信するにちがいない。なにか重要なこと、はっきりと書きたくなくてこの表現でお茶を濁したことを、突きとめられそうだと思うだろう。少なくとも彼の伝記の一章分にはなるであろうなにか。あるいはそれ以上、他の逸話が衛星のようにその周りを取り巻くような、伝記の核心となるなにかかもしれない。エミール・ステーフマンの人生と作品を決定づけるできごと。伝記作家は取り憑かれたようにそのなにかを探すだろう。

 実際にはまったくなにもなかったというのに。

 

 そしてこのメールを契機に、彼は新たな小説のコンセプトをキャッチする。これまでの6作とはまるで異なる、むしろこれといって「よんどころない」ことなど何も起きやしない「作家についての小説」を書く。Tという主人公の視線が捉えるのは「たとえば、何千枚ものカバノキの葉の震え。コッコッというニワトリのしずかな鳴き声」、あるいは幼い娘レネイの「か細い肩、栗色、リンゴの丸み」。エミールを囲む、このあまりにあまりにつつがない日常の光景に「読者は一瞬のうちに降伏し、Tと一体化するだろう。歓迎されていると感じ、留まりたいと思うだろう」。

 そもそも「彼は自由だった」、なぜならほとんど「記憶をもたない」から。ゆえに過去作には彼の経験など反映させようもなかった。そんな彼があえての私小説的な何かに取り組むことを決める。あるいは彼が記憶を必要としなかったのは、それまでの日々が幸福であり、つまりは平坦でしかなかったことに起因しているのかもしれない。体験はあるけれども経験はない、言い換えればそれは、「身内のよんどころない事情」など決して発生しない日々。

 ところがこの小説を構想するところからエミールの人生は急展開する。もうすぐ4歳になる娘が突然の脳梗塞、「よんどころない事情」に襲われる。私生活がフィクション化し、次いでやがてフィクションが私生活化する――

 

「偉大な作家のほとんどは、伝記ではなく著作目録を残すと言われる。作品を書くために欠かせない人生については、作品の言葉以外はほとんど何も残されない」。

 この小説を要約するような表現に、たまたま同時並行的にめくっていたまるで別ジャンルのテキストにて遭遇する。

 作中の表現を借りればエミールは「新たなドストエフスキー」で、元祖よりも「一層激しく、独創的」とのこと、「偉大な作家」であることを伝えるにこんな仰々しい形容を持ち出す時点で、少なくともこの筆者ペーター・テリンが「偉大な作家」でないことは万人に了承されようが、別にこれしきの作品自体はもはや少なくとも私にとって問題ではない。メビウスの輪よろしく虚実のボーダーがねじれる、そんなメタフィクション構造なんてあまりにありふれていて、今さらそれこそ他を圧倒する「よんどころない」点など何ら示しようもない。

 しかし、何気なく手に取られた2冊が、なぜか奇妙なシンクロニシティを描いてしまうこの偶然は、事実は小説より奇なり、との陳腐に過ぎる表現を改めて呼び覚まさずにはいない。開くタイミングが仮にほんの1月ずれていたとしても、私の中で双方が結びつくことなどなかっただろうに、たぶんこの中編小説が伝えようとしていたことってつまりこれでしょ、と経験があっさりと告げ知らせてくれる。

 

 もちろん、こんなたかだか数十字のみをもって符合をこじつけているわけではない。

 今日の私たちが大いに恩恵を被る「情報」の父、クロード・シャノンがもたらした暗号伝達をめぐる「爆弾級の発見」の源は、腰が抜けるほどにシンプルだった。つまり、言語にはことごとくお約束がある。例えば英語では「Qのあとにはほぼ自動的にUが続くが、U自体は何かを教えてくれるわけではない。だから普通はUを捨てても構わない」。従って英語をある程度かじっていれば、「MST PPL HV LTTL DFFCLTY N RDNG THS SNTNC」とすべての母音を省略しても、概ね「Most People Have Little Difficulty in Reading This Sentence」と読めて読めないことはない。あってもなくてもいいじゃない、なぜならば予めシェアされているから。圧縮可能なこうした決まりごとの多寡を指して「冗長性」という。

 そして『身内のよんどころない事情により』のとある一章は、The quick brown fox jumps over the lazy dog.をもって切り出される。アルファベットの26字が一通り網羅された、タイピングの練習用にしばしば用いられる文章であるらしく、別にエミールもしくはTの眼前でキツネがイヌを飛び越えたわけではない。そして仮にそんなことがあろうがなかろうが、何が変わることもない。

「よんどころない事情」など起きやしない日々、つまりはマーケティングの消費言語で一切が記述可能な「冗長性」で満たされた日々、スタンプを押すように来る日も来る日もまずは似たような日々。そんな日常を切り取って記述してみたところで、タイプのためのタイプと何が変わることもない。どんなテーマのテキストを読んだところで、今さら「冗長性」の既視感をそうそう逃れることもない。そもそも例えば「夏休みの初日はどんよりした灰色の空で、霧雨が降っていた」や「ベル研究所での夏が終わり、秋になってプリンストン高等研究所にやって来た頃には、『クロード・シャノン』の名は数学や工学の世界で十分に知れ渡っていた」といった発話から曲がりなりにも意味が取れるという現象そのものが「冗長性」アーカイヴズへの参照反応に過ぎないのだから、既定スクリプトの束としてのことばに対して新しさを望むというのがもとより形容矛盾でしかないのだろう。

 誰がどんな仕方で死のうとも、そこに「よんどころな」さなどひとつとして見出し得ない。

 

 しかし暗雲から時に光が放たれる。偶然という。

 図々しくもそれはもしかしたら、工学の現場に数学の天啓が降り注ぐ、聡明なるパイオニアのマジカルなその瞬間に少しだけ似ている。

「よんどころない事情」とまで触れ回るほどではない何か、たぶん他人に訴えたところで瞬時のときめきを共有してもらえることもないだろう何か、そこまで暇でもおせっかいでもないだろうAIがわざわざマッチングしてくれるとも思えないそんなささいな何かのために、何かと何かがたまさか組み合う、混ぜるな危険が時にもたらす僥倖のために、明日も私は生かされる。

 

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