さよならテレビ

 

沖縄と核

 沖縄には、かつてどのような核兵器が、どのくらい配備されており、兵士たちはどのような思いを抱えながら任務にあたっていたのだろうか……。

 取材では、沖縄に核兵器が配備されることになった時代背景や国家の思惑を明らかにすると同時に、現場で実際に核兵器を扱っていた兵士たちの証言を集めること、そして、知らぬ間に核兵器と隣合わせでの生活を余儀なくされていた沖縄の住民たちの状況を明らかにすることを重視した。国家レベルの「大きな物語」と同時に、兵士や住民レベルの「小さな物語」を明らかにしてこそ、沖縄と核のリアリティに迫れると考えたからだ。(中略)

 取材の成果は、NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』(2017910日放送、50分)とBS1スペシャル『沖縄と核』(20171217日放送、99分)という二つの番組に結実した。

 番組では、住民の間近で行われていた核爆弾投下訓練の実態や、海兵隊核兵器の知られざるつながり、さらには1959年に米軍那覇基地で起きていた核ミサイルの誤射事故など、これまで埋もれていた事実を世に提示することができた。(中略)

 沖縄の本土復帰においても核兵器の存在は重要な役割を果たした。1960年代の末になると、アメリカの核兵器が配備されていることは沖縄でも徐々に知られるようになり、人々は、「異民族支配からの脱却」と「核兵器の撤去」を願うようになる。

 しかしその願いは、日米両政府による秘密交渉の末、「核抜き」の代償として、いわゆる「核密約」と「基地の固定化」をもたらすことになった。沖縄への核集中は、最終的に、〈沖縄への基地集中〉へと転化していったのである。

 

 テキスト内、一枚の衝撃的な写真が掲載される。それはかつての伊江島を捉えた航空写真。「よく見ると、島の北西部に、ちょうど弓矢の的のように、同心円状の白線が地上に描かれていることが分かる。航空写真にもはっきりと映るくらいなので、相当大きな的である。これこそ、爆撃訓練場とそこに作られたLABS訓練用の『的』である」。

 Low Attitude Bombing System、その頭文字を取ってLABS。上空150メートル、敵陣の「的」に深く入り込みつつも、その爆弾をリリースする直前から急上昇をかける、というこのアクロバティックな戦術には、無論、操縦するパイロットに強い重力負荷がかかる。なぜにこのような複雑な方式を取らねばならなかったのか。

「核爆発を起こす前に、パイロットが現場を離脱するための時間を稼ぐことができるのだ」。

「大型核」をもって敵国の都市を丸ごと焼き尽くすのではなく、低空から「小型核」を放つことで軍事拠点をピンポイントに狙い打つ、ただし同時に爆風は回避しなければならない、そんなマトリックスから要請されたLABSのシミュレーションが、1950年代の占領下の伊江島では日々、繰り返されていた。

 その演習用の土地を確保すべく伊江島で実行されたのが、「銃剣とブルドーザー」だった。以下に当時の記録を重引しよう。

 

 はじめに比嘉浦太(58)さんの家の床にブルドーザーのきっ先がくい込みました。「止めてくれ」と叫ぶ十名家族の比嘉さん一家の声もきかず、畜舎、納屋、水のない地方なので雨水をためる水タンクも無惨に破壊し、さらに散乱する家財の上からブルドーザーで土地をかぶせ後カタもなくすきならして了いました。

 又7名家族を抱えて働いている知念広吉(27)さんの家には武装50名位と作業兵30名が押しかけて来て、家族はすぐ家を出るように命令してきました。しかし知念さんの家には6才になる幼児が熱発して寝床にふせっていたのです。父親である広吉さんは「子供がこの通り病気だから、どうか暫く延期してください」と手を合わさんばかりに歎願しました。

 ところが米兵達はそれに答えようともせず、泥靴のまま座敷に上がりカヤを引きちぎり、病児を妻に抱かせ老母(65)と共に外に追い出し、広吉さんは5名の兵隊に引き出され銃剣の槍ブスマで取囲み、一歩も動かせず家財道具を作業米兵によって運び出されると見るや、知念さんの一家の住みなれた家はブルドーザーによって突き倒されました。

 

 何とも驚くべきことに、この収用をめぐる米軍の公式記録が表現していうことには、「侵略の決行日」“D-Day” for the “invasion”。紛れもなくインヴェージョンであることを自覚しながらも、悪びれるところはない。

 国家の大義とあらば、多少の犠牲はやむを得ない、遡ること十数年前の沖縄でも同様の惨劇が繰り広げられていた。もっともその主体は日本軍、『沖縄スパイ戦史』の記憶が蘇る。

 

 このドキュメンタリーをやがて果てなき戦慄が襲う。

「取材の過程で、沖縄に配備されたナイキ・ハーキュリーズが、大惨事につながりかねない重大な事故を起こしていた事実をつかんだ。核弾頭を搭載した1発のナイキが、誤って発射され、海に突っ込んだ、というのである」。

 この事故が那覇飛行場近くのミサイル基地で起きたのは、1959619日。

 1名が死亡、5名が負傷、このアクシデントは確かに翌日の現地紙でも報道はされた。しかし事故は発火火薬の暴発によるものであるとされ、核弾頭に関しては一切触れられてはいない、あくまで米軍当局のプレスリリースをなぞるに過ぎなかった。

 原因は、ブルー・アラートに浮足立った伍長とそもそもの人員不足が招いた、マニュアルからの初歩的な逸脱だった。ミサイルは水平状態で発射され、そのまま海へと滑落した。ちなみに、このナイキは引き上げられることもなく、今なお深くに眠っているという。

 なお、この出来事にはとんでもないオチがつく。敵機の侵犯を受けて発信されたはずのこのブルー・アラート、実は抜き打ちのテスト演習に過ぎなかった。

 証言者によれば、この際に搭載されていた核弾頭の破壊力は広島に投下されたものとほぼ同等、地上に留まっていたこの段階で核分裂が誘発されていることはなかっただろう、「核爆発は起きないようになっていました」との証言におそらく偽りはない、しかし、抜かずの秘刀のはずの核がこれほどまでにお手軽に放てるようなセットアップが沖縄の地では日々、進められていた。

 そしてこの事実は、当然のように、現地住民には告知されていなかった。

 このとき起き得たかもしれない最悪のインシデントといえばたぶん、容器が吹き飛んで放射性物質がばらまかれてしまったこと。前もって何一つ知らされていない周辺のオキナワンが、寝耳に水で事故の発生を聞かされたところで、的確な安全措置を自らに講じ得たかは極めて危うい。地元自治体に動線設計等の備えがあったはずもない。米軍サイドにおいても、トラブル・シューティングの手引きやリソースが用意されていたかすらも定かではない。

 

 1961年、時の国防長官、ロバート・マクナマラは、米軍の幹部に宛てて一通のメモ書きを送った。「琉球列島への兵器と部隊の配備について」との文書において、このミスター・ベスト・アンド・ブライテストが言うことには、「メース〔ミサイル〕については、『その話題をできるだけ少なくするに限る』ということだ」。

「話題をできるだけ少なくするに限る」。

 奇しくもこの一文が本書全体を貫く。

 テレビも捨てたものではないな、と感心する、つまり、2017年においても、こうした「話題」をきちんと掘り出した一編のドキュメンタリーが放送されていたのだ、というその一点において。

 そして同時に愕然とする、本書を手に取るまで、このことがまるで伝わってきていなかった、というその事実に。おそらくは他のメディアによる後続報道もなかったのだろう、「話題」は瞬時にフェードアウトを余儀なくされた。

 沖縄の歴史を伝えるこのドキュメンタリーは、皮肉にも現代メディアの写し鏡をあらわさずにはいない。

「話題をできるだけ少なくするに限る」。

 もはやそんな火消し役でしかあれないマス・メディアに向けて、哀悼の意の他に何を示すことができるだろう。

 見たいものだけを見る、見たくないものは見ない、そうして「話題」を自ら閉ざした国民感情とやらの先に待つのは破滅でしかない。

 真実は人間と違って忖度などしてくれない。

 

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