夏色

 

 今夜にでも、何かが起きるのではないか。そんな気がしてしまう。いや、そんな気なんか全然しない。

 そんなはずはない。

 何も起こらない。

 何も起こるはずはない。

 いつも通りだ。

 何事もない。

「虹のかかる行町」

 

 同工異曲というフレーズがこれほどあてはまる短編集も珍しい。

 良くも悪くも一貫している、このテキストが切り取るのは、「何も起こらない」はずの日常に、もしかして何かが起きているかも、という不安の裂け目。

 巻頭作「虹のかかる行町」が切り取るのは、「少なくとも、誰もが誰もの顔を知っていた。そして大概、誰もが誰もの、学年を把握していた」、そんなローカルな街の人々、主に子どもたちの日常。

 保育園の運動会のワンシーン、玉入れのカウントの最中、少女はふと焦燥に駆られる。「もうなくなる。今度こそ、この次で終わりだ」。後ろを向くと、そこにいるはずのクラスメイトがいない、周りを見渡しても、母の姿はない。家に帰りたい、でも、帰れなかったらどうしよう。

 基本をいえば、概ねただこれだけの話がオムニバス形式で繰り返される。何気ない日常、さりげなく芽生えた不穏がじわりじわりとインフレーションを来たし内面を蝕んでいく。それでも結局、「何も起こらない」。

「かえる」も構造的には限りなく同じ、溝でカエルの卵を拾ってきた息子に母が返してきなさい、と命じたきり、なかなか家に戻らない。その様子を見ていた姉は、自分がちゃんとついていってあげていれば、と後悔しきり。

 現代的な文脈に即せば、陰謀論者のロジックとの類似性云々とトピックを展開することもできなくはないだろう。スマホなきおそらくは昭和あたりが舞台に据えられているとはいえ、書かれた同時代コンテクストに従えば、むしろたぶんそうして読み解かれるべきテキストなのかもしれない。もっとも、ここに立ち込める空気からの闇落ち云々はこじつけとしか思えないのもまた否めない。

 

 ストレートに言えば、ある面で退屈ではある。

 しかし、それは仕方がない、「何も起こらない」退屈な日常でなければ、そこにはらりと垂らされた戦慄の匂いが引き立たないのだから。それはあくまで私たちの日常、すなわち退屈の似姿でなければならない。

 そのテイストを貫いてくれていれば、そういうものとして読み続けることはできた。どうということのないことをこの世の終わりのように捉えて漠然と絶望するくらいなら、誰にだって身に覚えがあることだろう。時間になっても保育園にママがお迎えに来ない、ママがボクのことを嫌いになってバイバイしちゃったのかな、正解、門の前でママ友同士くっちゃべってたただけ、みたいな。

 しかし、そこに妙な肉づけが施された瞬間から、私はどうにも興覚めに誘われずにはいられなくなる。

 それは単に私にホラー心、SF心が決定的に欠けているせいなのだろう、とは思う。しかし例えば「わたしをじっと見上げる彼の二つの眼の奥で、極小の赤いランプがともった。この子は、こんな子だっただろうか」(「飛光」)といかにも意味深にほのめかされても、宇宙人にマインド・ハックされるとかそんな話、現実には絶対にありませんから、とまるで入り込めなくなってしまう。

 例えば映画『惑星よりの物体X』は、冷戦を背景としたスパイ、赤狩りの寓意として没入を促すことができた、なぜならば、非日常のフィクショナルな舞台の下敷きに時代性という日常が横たわっていたから。

 しかし本作は、ノスタルジアで装飾された日常にアクロバティックな想像の飛躍をぶち込む。当事者にとっては大真面目、しかし傍観者にしてみれば、「何も起こらない」ことがもとより分かり切っているから、妄想乙、くらいしか言えなくなってしまう。まさに「わたしが思い描いたことはほんとうにはならない」(「かえる」)のだから。

 そんなことより、遊びに行ってきます、と自転車で元気に出かけていったバカ息子が、10分後に砂利道の駐車場でずっこけて顔を血まみれにして帰ってくる、とかの方が訳分からなさ過ぎて、圧倒的に怖くない? ちなみに、小一の私の100パーセント実話です。そしてその数年後、同じく自転車絡みで、バカ娘は母の目の前でブレーキをかけずに下り坂を爆走して空を飛び、そのまま気絶して救急車で運ばれ、ところがなぜか打撲と擦り傷くらいで済んだという。私が親だったら、不条理性において楳図かずおをはるか凌駕するこんな珍獣どもに囲まれて、メンタルヘルスを完全に壊されて、幻視のひとつも見たり、壁に向かって話しかけたりして、もしかしたら変な壺を買わされたりしていることでしょう。

 そこには意味も必然も何もない、注意力や運動能力の未熟な子どもは頼みもしないのに何とはなしに怪我をするし、老若男女問わず今日も明日も誰かしらが何かしらの仕方であっけなく死んでいく、それらを指して「何も起こらない」日常という。

 フィクションのアクシデントには何かしらのロジックがある。

 現実のアクシデントには大数の法則のランダムピックしかない。

「何も起こらない」、それこそが怖い、と私は思う。

 

shutendaru.hatenablog.com

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