Anyone Who Had a Heart

 

 尾去沢ツトムは、小波の父だった。

 厳密には父と言い切るわけにはいかない、あくまで父とおぼしきひと、だった。「あれがあなたのお父さんよ」と言い聞かされてきた相手、というのがじっさいのところであり、父なのかもしれないし、そうではないのかもしれず、小波はその点について未だに懐疑的なままだった。なぜそのような曖昧な態度に留まらざるをえないのかといえば、なにしろツトムというのがこのとおり、マネキン人形にしか見えないせいである。

 

 所詮は観光施設に展示されたマネキンの一体にすぎない、そんなことは知っている、しかし「父とおぼしきひと」と自らに言い聞かせるに至る相応の理由が小波にはあった。

 

 母の語りには随所に破綻があって、けれども幼い小波にとって母はほんとうに唯一の肉親であったから、母の機嫌を損ねないということはつねに、ほかのなによりも優先されるべき彼女の最重要課題であり続けた。母の語りの綻びを指摘したり追及したりするのを意図的に避けるスキルは水の飲み方を覚えるみたいに自然に身について、だからこの母子のあいだにはどこにも、ブレーキというものが存在しなかった。むしろ小波という優秀な聞き手が存在したことによって、母自身の生い立ちやツトムとのなれそめなど、すべては加速度的に寓話的なものになり続け、雪だるま式に膨れ上がり、母と小波のボロ屋のうちがわには、奇怪な空想の城ができ上がっていったのだった。

 

 長じてやがて母を失った小波は、「随所」どころではなく「破綻」した自らの語りの「優秀な聞き手」を夫に求めるも、彼に引き受けられるはずもない。ある日、帰省の計画を打ち明けると、妻よ、目を覚ませ、と夫は滔々とまくし立てて説得にかかる。その姿に小波は笑いを抑えきれない。

「配偶者がまったく理解できないことを言い出したというときに、このようなまるきり紋切り型の拒絶反応を見せた夫のつまらなさに、小波は噴き出したのだった。……あなた疲れてるのよとか、夢でも見たんじゃないのかとか、それしか言えないのかというくらいに決まり切った台詞で、執拗なまでに主人公の経験を否定して寄越す。フィクションの世界のことと思っていたそれを自分の夫がいま現実にやってみせたのがおかしくておかしくて、小波は笑ったのである」。

 

 開始早々、おそらくは夫の目線に限りなく近いだろう読者たちは、必ずや困惑に駆られる。

日本橋三越に、秋田の実家の洋服箪笥に貼ってあるはずの、〔けろけろ〕けろっぴのシールが貼ってある」――どう読んでも記号的なまでの幻覚の類でしかないことはただちに知られる。イケアのモデルルームで出くわしたツトム――というかもちろんマネキン――に脳内で罵倒を浴びせてはみるも、ただちに罪悪感に苛まれずにはいられない、そんな彼女に「お大事に」という以上にかけるべきことばなど、少なくとも私には見つけることはできない。

 統合失調症、とか、境界性人格障害、とか、妄想性障害、とか。

 小波やあるいはその母の症例を説明するための診断名にはおそらく事欠かない。もっとも、これらの記述がどれほどまでに臨床サンプルを的確に踏まえて綴られているのかなど、精神医学を生業とするでもない一読者には知る由もない。

 

 よそさまを素人診断でラベリングして悦に入る、いくら相手がフィクショナルな造形物だとしても、それが適切な態度とも思わないし、それ以前の問題として、ただただ単純につまらない。

 だからこそ、あえて束の間小波の目線に沈潜する。

 郷里に帰り着いた彼女は、打ち捨てられて廃墟と化した昔日の炭鉱の光景に「最盛期の活況」をオーバーラップさせてみる。

「骨組みに肉をつけ、色をつけ、あらゆる管に血を電気を水をなにかをとおす、すみずみまで通わせ挙動させる。……小波はそのなかにちいさく自分を立たせ、甘い匂い、金属音、煙、熱、風、さまざまのものを彼女の周囲に立ち上げた。……

 そうした気配をじゅうぶんにあじわうと、小波は最後に、その喧騒のさなかに訪れる一瞬の、コンマ一秒の無音状態を想像した。なんらかの偶然が無数に嚙み合って、機関の歯車のきしみも風も人びとの対話も、すべてがふっと押し黙る一瞬、いっさいの無音。それがいまうんと間延びして小波の目の前に、ここに展開され薄く広げられ、引きのばされ、保存されている――ああ! 小波には、このようなことを考えている時間がほかの何よりも楽しかった、有意義だった。こういう頭と意識の使い方ならば、いくらでも飽きずに続けられていた」。

 早朝のその場所を彼女の他に誰が訪れることもない。限りなく無音のその風景をじっと見つめてみたところで、そんなものはすぐに飽きが来る。彼女には誘われるべきノスタルジーもない。しかし空想のざわめきを重ねた後で改めて走るその静寂は、たちまちに背筋そばだつ感覚を植えつけずにはいない、流れているのは同じ「無音状態」だというのに。

 夫が象徴するだろう現実など、所詮「紋切り型」の反復を超えない。「つまらない」彼らは自身の「紋切り型」性に死のその瞬間まで決して気づくことはない。終生コピペ的存在でしかあれない彼らにしてみれば、「紋切り型」からの逸脱をもって例えばそれを狂気と呼ぶ。

 

 ミゲル・デ・セルバンテスドン・キホーテ』において、かたや遍歴の騎士は風車に怪物を見て、かたや従者は怪物に風車を見る。風車はどこまで行っても風車に過ぎない、サンチョ・パンサが象徴するだろうその常識なるものは、あくまで風車は風車でしかないという「紋切り型」を繰り返す、その限りにおいて成り立つ現象に過ぎない。凡庸な年老いたロバに稀代の名馬を見ずにはいられない、騎士道物語がご主人様にかけた魔法の魅惑など彼には決して分からない。

 梶井基次郎檸檬』において主人公は一粒の柑橘に爆弾を見る。やがて脳内に爆ぜてほとばしるだろう金色の閃光のまばゆさを知る者が、吹き飛ばされて然るべき現実とやらに目をやるべき理由、つまりはレモンをレモンと呼ぶべき理由など、何ひとつとしてない。

『家庭用安全坑夫』は、そんな古典的なモチーフを改めてなぞり直す。あるいはその点をもって「紋切り型」とも云う。

 現実が「紋切り型」のテンプレートの集積物でしかないように、フィクションもまた、「紋切り型」のコピペをリピートすることしかできない、それでもなお、紙に刻まれたたかがモノトーンのシミが、「ほかの何よりも楽しかった、有意義だった」。テキストの快楽とはすなわち、「紋切り型」が「紋切り型」でしかないことを知悉したその上で「優秀な聞き手」を引き受ける、その行為に他ならない。

 

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