アメリ

 

 私が妊娠したのは4日前だった。

「あれ、まだカップあったのか」

 部署の島に戻ってくるなり課長がつぶやいた。夕方の脂じみた空気に、煙草のにおいが加わる。

「いつのだっけ、あれ。ああ、午後一の来客のときか」

 今度はもう少し大きな声で言う。どれだけ聞こえるように言ったって、時間を確認したって、カップもソーサーも自分で流しまで歩いていくわけでもないのに。……

 反抗とも呼べない、ちょっとした実験のつもりだった。他の誰かが、例えばその打ち合わせに出ていた人がカップくらい片付けるんじゃないかって。……自らカップを片付けにやってくる人がいないと彼らはどうするのかなって好奇心が少し働いただけだった。

 だからカップに少しだけ残されたコーヒーに煙草の吸い殻が突っ込まれていなければ、午後4時半まで放置された吸い殻のにおいがここまでひどくなければ、素直に片付けるつもりだった。

「すいません」

 通りかかった課長に声をかけた。給湯室に行こうとしたのか、マグカップティーバッグを持っていた。最近はまっているらしい明日葉茶だろう。

「今日代わってもらえませんか。片付け」

「え」

「ちょっと無理です」

「どうしたの、急に」

「今妊娠していて。コーヒーのにおい、すごくつわりにくるんです。タバコの煙もダメだし。あとこのビルって全館禁煙ですよね」

 こうして私は妊娠した。

 

「この会社の人たち、顔色が悪い。……社員の顔色が全体的にくすんでいる。日焼けというより、内臓が悪そう」。

 そこにはただ残業のための残業があった。「私」が勤めるそのブラック企業には、契約で交わしたはずの生産管理の業務の他に、「名前もない、もはや誰からも直接頼まれることがない仕事」があった。

「電話に出る、コピーを取る、買い出しをする、部署あてに来た郵便物を担当ごとに割り振ってそれぞれに配る、コピー機の用紙やインクを取り換える、ホワイトボードの日付を毎日書き直す、落ちているゴミを拾う、用紙が詰まったまま放置されているシュレッダーを直す、冷蔵庫の中の腐ったものを処分する、電子レンジで温め過ぎて爆発したらしいコンビニの親子丼の残骸をアルコールで拭く。別にこれらはあなたの仕事だと言われたわけではない。けれど、しないで放っておくと、ねえ、と声をかけられる」。

 そんな「名前のない仕事」が、それがあたかも自発的な行為であるかのごとくに、日々「私」に課せられる、それはたぶん「私」が女性だというだけで。

 そして「私」は何気なく嘘をつく、子どもを身ごもった、と。女性の女性性を煮詰めたような妊娠というその行為が、無原罪の懐胎が、「私」と周囲の関係をほんの少しだけ変えていく、色のない世界が束の間彩りを取り戻す。

 

 ある日のこと、デスクの上に宅配便が届いていた。他社からのゼリーの差し入れだった。「名前のない仕事」だった。箱から取り出してスプーンを添えて、ひとりひとりのもとへと配り歩けよ、との暗黙の命令だった。それまでならばその通りにしていた。しかし、妊娠14週目の「私」は違った。

「名前のない仕事」を誰も担わない末に古紙が散乱し、モノトーンと段ボールの生成り色で覆われていた給湯室の冷蔵庫に「早いもの順です。どの課の方もお好きにお取りください」とメモを貼ると、席に戻りひとり、マスカット・ゼリーを食する。

 包みのなかには、緩衝材と装飾を兼ねた、たぶんあのくしゃくしゃとした「紙とも布ともつかない素材」が容器を囲んでいた。ゼリーに合わせた「桃色、橙色、うぐいす色の淡い三色。よく見ると細かなラメが混ざっていて、頼りない蛍光灯の光にわずかに反射する」。

 

 その嘘は「今週末は誰とも一言も喋っていない」、そんな「私」の日常を変える。

 ひょんなことから通うことになったマタニティビクス、「ジムの教室のドアを開けると、部屋には色とりどりの妊婦がいた。赤やオレンジ、グリーンなどの鮮やかなTシャツに、ブラトップの人も何人か」。そうしてハードなエクササイズをこなした後、銘々が愚痴をこぼし合う輪の中にいつしか「私」も加わるようになる。カラフルなリアルを前にして、それまでの数カ月間、定時退社により生まれた空き隅を埋めていたサブスクでの映画鑑賞のルーティーンは瞬く間に色を失っていく。

 けれど「私」ははたと惑う。誰も得をしない職場の飲み会の帰り道「よりも、エアロビの後にラウンジでくだらないことを散々喋ったりお菓子を食べたりして帰った一人のアパートの玄関の方が、ずっと暗いのはなんでなんだろう」。

 どんなコンテンツよりも強力にその嘘を信じさせてくれる魔法がはたと解けたその瞬間に、シンデレラの灰かぶりとしての日常はなおいっそうその耐えがたさを増す。

 

「芯は空っぽでよかった。そこに物語をつめていくから」。

 この小説を読み進むほどに、よく分からなくなっていくことがある。

 結局のところ、「私」はどこまで嘘をついているのだろう、と。妊娠していると嘘をつく、そうして嘘から生まれた真がここに書かれているのだろうか、もしくは、その真と思しき何かすらも嘘なのだろうか、と。

 作中「私」は、嘘がなければ出会うこともなかっただろうとある人物に向けて語りかける。

「自分だけの場所を、嘘でもいいから持っておくの。人が一人入れるくらいのちょっとした大きさの嘘でいいから。その嘘を胸の中に持って唱え続けていられたら、案外別のどこかに連れ出してくれるかもしれないよ。その間に自分も世界も少しくらい変わっているかもしれない」。

 確かに、この小説は嘘をもって変わりゆく「自分」を描く、嘘というレンズ越しの主観としての「世界」が変わりゆくさまを描く。だが果たして、「世界」は本当に変わっているのだろうか。

 やがて産休が明けて「私」が職場に復帰すると、「部署の空気がわずかに、ごくわずかに変わっていた」。新たに女性のパートを雇うこともなく「名前のない仕事」を各人が分担している、そんな「世界」が広がっていた。どうやら「私」が住まっているのは、育休手当や扶養控除といった実務的な社会保険手続きをもって嘘が白日の下にさらされてしまうことのない「世界」らしい。

 あるいはむしろ、実は妊娠していないのだけれど、という「私」の語りこそが嘘なのかもしれない、しかし、今さら本作においてそんなみすぼらしい叙述トリック云々の可能性を検討する気もしない。

 何もかもが嘘でいい、なぜならこれはフィクションだから。「嘘でいい」、いや、嘘がいい、なぜなら「世界」はクソだから。

 メイク・アップして、ライト・アップして、フォトショップとさらにはAI補正でブラッシュ・アップもかけて、そうして上げ底上げ底を重ねた液晶画面の中の「嘘」に比したとき、リアルの「世界」とやらはもはやおよそ色を欠いた、見るに堪えない、存在に堪えない何かでしかない。そんなみすぼらしさを自白済みの「世界」の中で、それでもなおあえて「世界」を参照すべき理由など、当の「世界」はいかなる仕方でも提示することができない。メーテルリンク『青い鳥』のビフォー・アフター、旅路の果てに一度光の喜悦を知ってしまったチルチルとミチルは、もはや他の誰とも分かち合うべきものを持ち得ない。

「もしかしたら誰かと家族になるとは、互いの存在を担保して忘れ合わないような環境を作ることなのかもしれない」と言ってはみたところで、当然にこの「世界」には、色を持たない誰かと誰かが「互いに存在を担保して忘れ合わない」ようにする、そんな徒労にリソースを割くべき根拠などひとつとしてない。所詮「世界」の営みに、「名前のない仕事」を押しつけ合うだけの、退屈で不毛なゼロサムゲームという以上の意味などない。すべて存在は入替可能、入替不要、01で記述可能で記述不要な無色のデータセットを超えない。

 確かに、嘘は「世界」を変えやしない、ただし「自分」を変えてくれる。現に私たちが生きるタッチパネルより平板なこの「世界」にあって、他者とやらを媒介させるべき必要がどこにあるというのだろう。甘やかな嘘がもたらすカラフルな「世界」を享受する、この想像の自由を前にして、誰を参照する必要があるだろう。

 新たに生まれ落ちる命すらも、この「世界」の何を変えることはない。

 

 語る、すなわち、騙る。

 それは風車か、はたまた魔物か、退屈な現実よりも華麗な虚構、そんな古典メタフィクション論を本書は見事に踏襲する。

 

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