韓国を降りる若者たち

 

 ある者にとってのそれは、まだ誕生すらしていない時代に出身地で起きた、1980光州事件だった(「じゃあ、何を歌うんだ」)。

 またある者にとってのそれは、3.11のような惨事に襲われたら、という近未来世界仮定下の古里の原発事故だった(「冬のまなざし」)。

 またある者にとってのそれは、1994413日、「犬になりたい」と思ったその瞬間だった(「愛する犬」)。

 そしてまた、ある者にとってのそれは、少なくとも5人、おそらくは12人が強姦の末に惨殺された、その瞬間だった(「もう死んでいる十二人の女たちと」)。

 彼らにとっての世界が終わってしまったのがこれらの瞬間だったのか、は本当のところ、よく分からない。けれども、この短編集に現れる人物たちが生きているのは、現に終わっている世界、いつ終わったのかはよく分からない、でも少なくとも、事実として既に終わっている世界。

 あるいはかつて、はじまりのその瞬間も横たわっていたのかもしれない。それは例えば1977年、「科学だ 未来だ エネルギーだ 発展だ 開発だ 先進国だといったものたちが作り出した明るい雰囲気みたいなものに包まれていた」、そんな輝かしき未来を原子力が約束してくれていたのかもしれない時代(「暗い夜に向かってゆらゆらと」)。しかし今となっては、希望の未来なるものが既に幻想のレトロフューチャーでしかないことを誰しもが知っている。

「生きるのに疲れすぎて面倒くさくて何もしたくないんです」(「愛する犬」)。

 人生は就活の志望動機欄と限りなく同じ、「本当に好きな歌」なんてやらされるもの、歌わされるものであって、そんなものはどこにもない(「そのとき俺が何て言ったか」)。

 属性はそれぞれまるで異なるはずなのに、八篇のいずれを取っても実はあまり変わり映えがしない、それはまさしく彼らリヴィング・デッドの単調さを何よりも雄弁にあらわすように。

 

「海満」の舞台は、韓国の南部に浮かぶという架空の小島。殺人犯が潜伏していたことで一躍全土に知られるところとなったその島を「私」が訪れることになった理由は、「何でもなかった。ただ、これから先、何も変わるものはないだろうということはわかっていたんだ。それだけだった」。リゾート化されているでもない、サーフィンやダイブに明け暮れることもない、売りといえせいぜいが、宿賃が安上がりで済ませられる、ということくらい、果たして「私」はひとまずドミトリーに身を寄せる。

 そこには個性的な人々が集い、彼らが織りなすドタバタコメディが、なんてドラマのようなことはこの小説には起こらない。彼らもまた「私」と同じ、「何でもなかった」。

外こもり」という言い得て妙なそのことばを知ったのは、下川裕治『日本を降りる若者たち』でのことだった。日本でひとまず金を稼いでは東南アジアへと向かう、それらの街に魅せられたわけでもなく、単に生活費が安いというその一点で何をするでも見て回るでもなく日々をやり過ごし、原資が尽きれば一時帰国しバイトやらで種銭を作りまた諸国へ戻り引きこもる、そんな「何でもなかった」人々に焦点を当てた2007年のノンフィクションの光景に、「海満」は限りなく重なる。

 

 

 ひとり当たりのGDPや所得では日本を抜き去ったはずなのに、本書が描き出す韓国もたいがいにして終わっている、それはいわゆる「N放世代」、出生率0.8の社会統計の反映ですらなく。

 より正確にはおそらく、世界はそもそも「何でもなかった」、はじまることすらなく、とりあえず終わっている。

  希望を持たぬ者には、絶望する機会すら与えられない。

 

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