どこにでもあるどこかになる前に。

 

 ブラインド・テイスティングを行うと、訓練を積んだ人のなかには、ある種の土壌のワインならではの特徴を実際に言い当てられる人がいる。最も簡単な例は重粘土質土壌で育ったブドウで、こうした土壌から生まれたワインは、たいてい厚みのある味わいになる。花崗岩地域のワインはどうかというと、しばしば独特の口当たりが感じられる。石灰岩地域のワインは、特有の突き抜けるような酸味が顕著である。ピノ・ノワール石灰岩花崗岩の地域で、同じような日当たりと気候下で育ててみれば、ブドウの熟し方は違ってくるはずだ。糖度も酸のストラクチャーも長熟の可能性も異なるはずである。そして味わいも違ってくることになる。ほかの土壌の場合はどうだろう? 玄武岩質土壌から生まれたワインは灰のような後味を感じられるに違いないし、あるいは鉄分が豊富な土壌から生まれたワインには、さびた釘のような要素が感じられるだろう。

 産地の岩石の特徴がどうやって、あるいは本当にワインに表れるのか否かをめぐる論争は永遠に尽きないが、それは本書のポイントではない。この本はワインの学び方を体系化する一つの手法を提供するものだ。もし私の好む花崗岩質土壌のワイン産地を世界中から探したいのなら、任せてほしい。最高の石灰岩質土壌のワイン産地と、そこで何が育つのかを知りたいというのなら、それも大丈夫。本書が目的としているのは、あらゆる卓越したワインの根幹をなすもの、つまり土地と土壌だ。

 

 例えば「マルク・オリヴィエ」のテイスティング・ノート。

「ムロン・ド・ブルゴーニュから生まれたこのワインの第一印象は、フレッシュさと青リンゴを思わせる酸味。とりたてて具体的な果実香があるわけではないが、香りが開いてくると、白い花とレモンの皮の香りをかすかに感じる。繊細な柑橘類の皮の風味にはレモンがやや強めに表れている。タンニンはほとんどなく、塩味のある長い余韻にはきわめて凝縮感があり、ミネラルウォーターと間違えそうなほどである」。

 例えば「ナンクラレル・イ・プリエト」のテイスティング・ノート。

「スタックの香りはニュートラルだが、口いっぱいに味が広がる。次第に、魅力的で食欲をそそるライムのような酸味が一気に広がりだす。ペピエールと同様に、なめらかなテクスチャーと塩辛い石のような余韻がある。異なるのは、よりパワフルでオイリーで、エキゾチックなレモングラスとオレンジの花の香りがほのかに感じられるところだろう」。

 

 本書片手にこうしたインプレッションを参照して、好みに合いそうなワインを片っ端から検索にかけてみて、財布に余裕があれば、実際に注文してみたりもする。

 たぶん、ほとんどの読者はそのようにこのテキストを嗜むのだろう。

 けれども、ロバート・パーカー以来のそうしたカルチャーが何を生んだか、その顛末にわれわれは既に立ち会っている。つまりは、圧倒的な均質化だった。彼とそのフォロワーのスコアを金科玉条に、投機としてのワイン市場は瞬く間に例のジャムのような赤の生産に躍起になり、そして消費者はその規格品を嬉々として買い求めることでさらなる加速をアシストした。

 結果として、例えばカリフォルニアのシラーは「フルーツ爆弾のような代物」に成り下がった。それらは所詮、いかにもパーカー好みの「ナパのカベルネ・ソーヴィニヨンのような濃密なワイン」の劣化コピーにすらなれなかった。

 それはファッション・マーケットと限りなく同じ、やがて起きるだろうバックラッシュによって、非‐パーカーのトレンドが市場を一色に染め上げて、それに飽きればまた次なる流行へと舵を切る。もしかしたらそのどこかで万に一つ、生産効率とブランディングの隘路を縫って、このテキストがバイブルとして祭り上げられる未来も待ち受けているのかもしれない。しかしそれは単に、教祖の名前をアリス・ファイアリングに置き換えたという以上のいかなる意味も持たない。

 消費社会の文脈下において、筆者はいかなる仕方でもパーカーの鬼子でしかあれない。

 

 別にカーネルおじさんにフライドチキンをねじ込まれたわけでもなければ、ピエロによってハンバーガーを欲するように催眠術を刷り込まれたわけでもない。

 ファストフードとファストフードと、そしてファストフードのロードサイドのあの光景は、誰に強いられたわけでもなく、その地に住まう消費者たちによる選択の帰結にすぎない。

 ワインの均質化もまた、生産者と消費者が手を取り合って選び取った果実に他ならない。

 

 その中で、あえて筆者はファスト風土ならざる場所を自ら飛び回る。

 例えばフランス、ロワール地方はミュスカデの地は、「じめじめとした低地で風が強く、土壌は砂利の混じったカッテージチーズのよう」だった。スペインのガリシア地方の畑を訪ねれば、「野生のミントと鮮やかなタンポポが足の下で潰れ、春の強烈なエッセンスがあふれ出てきた」。

「マルク・オリヴィエ」を開ける度、「ナンクラレル・イ・プリエト」を開ける度、筆者は必ずやこうした光景を思い起こしているに違いない。「ラ・クラリーヌ・ファーム」のシラーからは、「ガラガラヘビが生息し、回転草と野生のセージが繁茂し、乾燥してほこりっぽい土地」の絵が広がり、「ドメーヌ・オヴェルノワ・ウイヨン」のボトルを手に取れば、「自ら焼いたパンを片手に、気兼ねなく語ってくれる作り手の質素な家」に思いを馳せ、「エレア・デ・ヴィラ・ブランコ」には「針金で吊るされたブドウに腹が立つの。あれではまるで奴隷ですよ」と熱弁する、腰まで垂れたドレッドヘアを重ねずにはいられない。

 

 ある生産者が言うことには、「僕たち人間は辛苦を体験し、乗り越えて、それを滋養としている……ブドウもまったく同じじゃないかと思うよ」。

 そうして踏みしめた大地が「高らかに歌い上げるようなパッションフルーツと柚子の風味」や「根菜を思わせる味わい深さと、ほのかな白茶の香り」に寄与しているのか、などと今さら問う必要があるのだろうか。たかがキンミヤやアサヒスーパードライですらも時に場末の居酒屋で酌み交わした誰かしらとの記憶を蘇らせずにはいないように、その地で見聞きした「辛苦」がグラスの中のワインに他とは違う「滋養」の雫を加えてくれる。

 

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