バッカナリア

 

 本書は私がフレーヴァー・フリーク、知覚科学者、稀少ボトルのコレクター、嗅覚の達人、ほろ酔いの快楽主義者、規定無視のワイン生産者、そして世界でもっとも野心的なソムリエたちの中で過ごした日々を綴ったものだ。ワインを買うためのガイドブックではないし、お人好しで信じやすいワイン愛好家讃歌でもない。そうではなくプリンストン大学のワインエコノミストの言葉にあるように、「本質的にくだらない」業界を探訪した記録である。とはいえ「くだらない」を脇に置いてみたら、飲食物の領域のはるか向こうにある何かとつながる数々の洞察が得られた。

 ワインが造られる過程も少し記したが、ブドウからグラスまでの旅というよりグラスから喉までの冒険譚である。ワインに熱狂する世界、その熱狂度合いや問題点すべてをも飲み込む懐の深い世界へと分け入った冒険。エジプト古代王朝のファラオも貧しい農民も、ロシアのツァーリ、ウォールストリートの大物、郊外の家庭人、そして中国系の大学生もを魅了してきた7000年の古い液体と私たちの関係の探索である。ミシュランの星付きレストランのダイニングルームの舞台裏に潜入してみる。歴史上初めてのレストランの時代にもどり、0.1パーセントの客のための酒宴ものぞいてみる。それからfMRI(機能的核磁気共鳴断層図)装置や研究所を訪ねる。途中、私をめんくらわせ、教え導いてくれたクレイジーなワインおたく、私を誘惑しようとしたブルゴーニュ・コレクター、それから私を分析してくれた科学者たちにも遭うことになる。……

 味わうということはたんに人生を堪能することの決まりきった比喩ではない。それは私たちの思考の枠内にしっかりと埋め込まれていて、全くの比喩ではなくなったのだ。ソムリエ、知覚学者、ワイン生産者、鑑定家、そして私が出会ったコレクターにとり、良い味を味わうとはよく生きることであり、自分自身を深く知ることであった。だからより深く味わうことは、食用にするもののなかでもっとも複雑なものから始めなければならない――そう、ワインから。

 

 それなりに名声のある店に勤めることになる。そうは言っても仕事の中身は「セラー・ラット」、つまり在庫管理とすらいえないバックヤードのパシリ、必要なのは体力と体力と、あとはせいぜいがブラックな勤務時間と低賃金に不平を垂れない忍耐力。

 そんなある日のこと、鑑定家たちを招待したワイン・ディナーの準備の最中、そのコメディは幕を開ける。ワインナイフを用いて封を剥がそうとすれば刃先を親指に食い込ませ、やったこともないデキャンタージュを試みれば、容器の口をはみ出してテーブルを赤く染めてしまう始末。

 それはまるで映画の世界の新米ソムリエ見習いの成長記録のための伏線描写、それもとびきり下手くそな。ごくオーソドックスなリテラシーを持った読者は、こんなお粗末なカリカチュアが本当に起きたことだと信じられるほどナイーヴではなくて、スラップスティックとしての凡庸さにため息をつくくらいのことしかできない。

 筆者に言わせれば、極上レストランのソムリエになる道のりは、「弁護士のロースクールなど公園でちょっと散歩する程度に思えるほど過酷で険しい」し、「シャトー・ベラ・リースリングシューベルトグレース・ケリーとの間に子供を持ったようなもので、つまりこの表現が意味するごとくあらゆる点で理解しがたい」。めくればめくっただけ、この手の修辞に事欠かない。

 全編通じて誇張と誇張で満たされた大味極まる文体、ところが、このテイストが本書の主題そのものと見事なマリアージュを構成しているのである。上記数行を酷評ととらえられてしまうのは著しい誤読、その世界観が遺漏なく文体に即していることに私は奇妙な感嘆すら覚えずにいられない。

 そもそも、アルコールと鋭敏な嗅覚という概念がはなはだしい形容矛盾を引き起こさずにいないのである。というのも、このハード・ドラッグの主な作用は、まさに感覚機能を鈍麻させることにあるのだから。ゆえに大噓つきでしかあれない彼らには、一切の感性も知性もインストールされていない。Q.E.D.

 然るに、彼らの話に耳を傾けるべきいかなる所以もない。

 

 ディルにバジルにレモングラスとしばしば香草の匂いになぞらえてはみるが、実物を試してみても、彼らはほとんどの場合においてそれらを嗅ぎ分けられることはない。数千ドルするワインの香りを形容して、グレープフルーツだ、プラムだ、スミレだと御託を並べてはみるが、「私の祖父なら自分の丹精したボトルを、そのへんの市場に3フランで売っているようなちっぽけな果物にけっしてたとえたりしないだろう」。ジャムという果実の凝縮感の定型句にしても、紀ノ国屋で一番高い代物を買い求めてもせいぜい四桁円、ワインの出費をそちらに回せば糖尿病になるほど食い散らかせる。シルクのような舌触りと言うのならば、喉にエルメスのスカーフでも詰まらせてそのまま死んでしまえばいい。これしきのことにすら気づけない程度の知能の持ち主が、己が感受性を誇ってやまない。

 ともに香りの名花と讃えられる、パパメイアンとジュビリーセレブレーションのフレーヴァーの差異はカベルネ・ソーヴィニョンとピノ・ノワールのそれごときよりもはるかに大きい――としか私には思えない――わけだが、嗅覚を磨いたことを自画自賛してやまない筆者やその周辺に言わせれば、「バラ」のフォルダーでありとあらゆる品種が収まってしまうらしい。この基準に即せば、ブドウはブドウ、ワインはワイン、それ以上の情報などひとつとしてまとっていない。

 バッカスの崇拝者にはバカしかいない、所詮がこんな世界である。誰の話を真に受ける必要もない。

 

 しかし、自分自身の話だけは真に受ける必要がある、なぜならば、少なくとも筆者に言わせれば、それが各々の人生を豊かにしてくれることだから。ワインを飲むにしても、ただいたずらに喉奥へと流し込むのと、口腔内を転がしてフレーヴァーを鼻に絡ませその成分をことばにしてみるのとでは、どちらが果たして経験として豊かなものだと言えるだろう。その結果導かれる言い回しのいちいちが、キャラメルだ、ピーチだ、セージだ、といかにチープであったとしても、言葉と紐づけされることでその数年後に何気なく口にしたワインから似通った構成を嗅ぎ取って、記憶が蘇るなんてことがあるかもしれない。惰性で飲まれるドリンクからはまず同種の追想が引き起こされることはない。たとえ成分鑑定が確かにキャッチしたはずの芳香酸の存在を裏づけなかったとして、それがなんだというのだろう。他人を騙すでもなく、煙に巻くでもなく、マウントを取るでもなく、ふんだくるでもなく、自分が自分のためだけに記すテイスティング・ノートを誰に咎められる必要があるだろう。

 人間は「50ドルのシャルドネを本当は2ドルだと告げられるだけでまずく感じてしまう」し、とあるワインが「275ドルもすると知っていることで、オーク樽熟成のもの同様にフレーヴァーが高ま」ってしまう、そんなでたらめな生き物なのである。言い換えれば、いくら払ったか、どこで飲んだか、いつ飲んだか、そんな情報を消費することに快楽を――ただしたいていは苦痛を――見出さずにはいられない、そんな特権を有する生き物なのである。

「まったく同じ味と匂いに対する反応において、未熟な者の脳の映像は比較的暗いままであり、一方私たち修練を積んだ飲み手はもっと決定的に、分析的に、そして脳の高次元の指令場所を活動させる。……もはや感覚は未知で記録もない流動的なものではない。感覚はしっかりと把握され、探求され、そして分析される。感覚は好奇心、批評、連関、正しい評価、そして嫌悪感か歓喜か悲しみか驚愕を喚起する。感覚は啓発し、刺激をあたえる。感覚は一つの記憶になり、そして私たちの世界観をつくる経験のライブラリーへと納められる。匂いと味は原始的で動物的感覚であるどころか、匂いと味の開拓を学ぶことは、文字通りの意味で、実に私たちの反応を高め、人生に意味を与え、真の人間にするまさに私たちと切り離せない一部なのだ」。

 すべて人間には自分のためのことばを、自分のためのストーリーを紡ぎ出す自由がある。

 

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