つれないアマリッリ

 

 まさに庭をつくっている現場をはじめから終わりまでフィールドワークすることで、職人たちとともに庭のかたちが生まれるときに立ち会い、記録しながら、庭について考えることができないだろうか? 職人たちがおこなう造形的な試行錯誤を観察することで庭を理解することができないだろうか? ようするにこの物体の構成のいわばレシピを克明に書き起こすことはできないか?……

 作庭現場をはじめから終わりまでほとんど毎日調査し続けるという迷惑なお願いをこころよく聞き入れてくださったのが、京都府北部の福知山に鎮座する古刹、補陀落山観音寺である。……

 山門のそばに立て看板がある。この庭をつくったのは京都の庭師、古川三盛。「当寺旧庭にあった山石」を使ってつくられたこの庭の正式名称は「斗籔庭」という。空海の『性霊集』の一文「斗籔して早く法身の里に入れ」からとった言葉だという。「俗世を離れてゆったりとした心で眺める庭」――これが立て看板の筆者である「山主」、小籔実英の思いだ。なるほど。……

 「庭園の詩学」と題する奇数章ではおもに石組の展開を追う。庭のかたちの生成や物体の配置の順序といったプロセスの記述が、ときに常軌を逸した詳細さ、つまりは異様な遅さで展開される。……

 「庭師の知恵」と題する偶数章ではおもに庭師たちの生態を追う。石組のような造形的水準の傍らで、庭の園路となる延段の敷設作業に従事する職人たちの振る舞いを観察し、職人が口にする特殊な語彙や話法、集団制作における意図のありか、庭師の身体と物や道具との関係などに注目している。

 

 そこはあたかも「平らな草地の周囲に植物が列植された小さな広場のように見え」た。いつしか「石組の添えものに過ぎなかったはずのサツキやツツジが枝葉をひろげ、主従を逆転させて石の存在を覆い隠してしまってい」た。

 その「小さな広場」に新たに石をひとつまたひとつと配置していく。いつしか石と石の間に流れが生まれる。そのさまは、囲碁の布石とはどこか違って、五線譜に散らされる音符に似る、少なくとも一読者の目にはそう映った。

 あくまで個人の雑感に過ぎない漠たるその見立てを決定づけるようなやりとりが、請け負った庭師と依頼主の住職との間で交わされる。

 庭師の目指す境地とは、「あってないような庭」。彼に言わせれば、「素材や条件の『求めるところ』、つまりそれらの本性にしたがえば必然的にこうなるもの」。対して住職が庭師に繰り返し求めたのはいわば「ありてある庭」だった。その制作観は「新たな造形的達成とともに作家名を刻印し、歴史的な『作品』を、つまりはあってないものではなく、撞着的な表現をすればありてあるものを残そうとする近代以降の芸術家たちの制作観」に極めて重なる。

 

 以下、伊藤友計『西洋音楽の正体』をめぐるおぼろな記憶を本書にパラフレーズさせてみる。

 古来、西洋音楽とはすなわち、神の恩寵の具現であらねばならなかった。音楽とは和音にはじまり和音に終わる、途中にたとえ不協和音がはさまれようともそれはあくまで結びの和音を引き出すための準備に過ぎない。まさしく予定調和、神の作りしこの世界の秩序を聴覚を用いて表現する、それこそがキリスト教圏――その淵源はあるいはピタゴラスに辿られるのかもしれないが――における音楽に他ならなかった。神の思し召しにより予め世界はそうできている、たとえ楽譜が書かれようとも書かれずとも、その意味においてすべて音楽なるものは「あってないような」もののみを指し示していた。

 時は17世紀、近代の幕開けを告げ知らせるかのように、ひとりの密やかな革命家、クラウディオ・モンテヴェルディが「つれないアマリッリ」をもってこの和音の規則を侵犯する。和音にはじまり和音に終わる、その規則を司る神などいない、全知全能の造物主ならざる作り手がこの世にはいる、あたかもそう宣誓するかのように、彼は「属七の和音」をもって近代の扉を開いた。予定調和が解体されたその音楽は神の御名によることができないのだから、必然各々の作曲家の名へと帰属させる他ない。かくして音楽は以後、「ありてある」ものへと姿を変える。

 

 エンドロールを前にして、そうして一見完成したかに映った「あってないような庭」を震撼させるような事態が庭師自身の手によってもたらされる。微調整などというものではない。「庭を真っ二つに切り裂」くように、ヤマモミジの木が植えられたのである。石が織りなす流れを分断して「目の前に障害物を置いたような強烈な配置」には住職も「えらいところに植えましたな」と当惑を禁じ得ない。職人たちもまた同様の感想を口々に漏らさずにいられない。

「あってないような庭」を追い求めていた庭師が、その終止符を前にしてまるで「属七の和音」のようなモミジを鎮座させた。これでは「ありてある庭」ではないか、筆者は意図を問わずにはいられない。庭師は答えて言った。

「石組を見せよう見せようとはしたくないんだよね。これくらい隠したほうが見やすいと思うし、あんまり石を見せようとするのは造形が造形で終わってるんだよね」。

 庭師にしてみればむしろ、このモミジをもってようやくそこに「あってないような庭」が生まれる。

 確かに、その背後にそびえる山にはモミジの木々が茂っている。限りなく同時に日の出日の入りを迎え、限りなく同じ雨雲からの滴りを受ける、一本のモミジから延びる補助線を媒介に、こうしてはじめて庭から山へと結ばれる。「庭はたしかにそこにある。あるのだが、いまや庭は、山や谷や空へとほどけ、あるいは植栽や鶏の群れの陰に隠れてないようなものになる。ようするに、あってないような庭になる」。

 

 とはいえ結局、庭は楽譜に似ない、制作者の手をひとまず離れることは終止符を何ら意味しないというその点において。

 司りようもない自然の摂理へと投げ出され、風雨とともに時間が作る景観は、常にたかが人間が脳内箱庭に思い描いた「こはんにしたかひて」=乞はんに従ひてをすり抜けていく。

 

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