万引き家族

 

 事件の主役は「ボドイ」……と呼ばれる若者たちだ。

 ボドイの多くは、職場からドロップアウトして不法滞在・不法就労状態にあるベトナム人の元技能実習生だ。さらに広義で言うなら、オーバーステイ化した元留学生など「やんちゃ」な背景を持つ在日ベトナム人たちの総称、くらいの理解をしてもいいかもしれない。

 ボドイは、ベトナム語で「部隊」や「兵士」を意味する。言語も生活習慣も異なる日本で奮闘し、ときには警察や入管と戦う自分たちを兵士に見立てた呼称らしい。……

 技術実習制度がはらむ本当の残酷さは、単純な搾取や人権侵害ではない。

 実習生の送り出し元の多くは、往年の中国や、現在のベトナムミャンマーカンボジアのような、現地の社会に人権意識が充分に確立していない、しかし庶民が権力を批判する自由が制限されている強権的な非民主主義国家だ。

 これらの国の「〔現地の社会でも〕優秀とは呼べない」人たちは、たとえ自分の人権が侵害されていても自覚できなかったり、異議の申し立てを諦めていたりする。そういう土地から、そういう人を選んで連れてきて、日本でも母国と同様に制限された人権環境に置く。かくして低コストを実現させているのが技術実習制度の本質的な仕組みなのである〔。〕……

 この本は、日本の北関東の地下社会に息づくボドイたちが起こした騒動と、彼らを取り巻く環境を、できるだけあるがままに描き出した記録である。

 

 加害者「ボドイ」、被害者「ボドイ」、そんな殺人事件が発生した農家の周辺を取材して回った折のこと、筆者は思わぬ証言を耳にする。

「ほんと、お隣はかわいそうなのよ。いきなり働き手が一気に2人も減ったんだから」。

 この証言者は、当然に例の刃傷沙汰のことを知らないはずがない、しかし彼女にとって同情が向かう先はあくまで労働力に穴の空いた「お隣」でしかない、「2人」の側には気にかける素振りもない。筆者の見る限り、「ごく普通の感情のはたらきを持つ農家のおばさんという感じだ」、しかしながら「自宅のすぐ隣で9日前に起きた事件について、死者を悼んだり若い犯人の今後の人生に思いをいたしたりするよりも、『働き手』は減った隣家の状況を気の毒がることのほうが、彼女としては自然な心の動きであるようだった」。

 ここに起きている事態を自覚なき差別と吊るし上げることもできよう、実際に表明されている感情といえばその通りのものには違いないのだから。しかし、ここにはそんな使い古されたことばではもはや包摂できないほどの断絶が走っている。いくら糾弾したところで、彼女にその意味を諭すためのことばなどたぶんない、そして同時に、「ボドイ」に向けて説明するためのことばもたぶんない。この両者を隔てる断崖絶壁を、彼女は意図せずして漏らしてしまったに過ぎない。

 

 ウーバーイーツでバイトする「ボドイ」に「みんなの友達で、配達中に間違えて高速道路に入ったヤツって、いるか?」と時事ニュースに沿って話を振る。すると取材に居合わせた4人が皆一様に過去にそうした経験があることをあっさりと認めた。そのうちひとりの証言。

「俺が入ったときは、首都高の本線を走っている時点ではまったく気が付かなかった。出るときにずっと下り坂が続いていて、ペダルを漕がずにヒャーッと下ったんだ。風がすごく気持ちいいなあと思っていたら、一般道と合流する場所に警官がいて、大声で呼び止められた。なにかヤバいと感じて、全力でペダルを漕いでその場から逃げ切ったよ」。

 彼らの目には、スマホの中のGoogleMapが指し示す最短最速ルートは見えても交通標識は見えない、行き交う車の様子が一般道とは異なることすらたぶん見えてはいない。

 彼らにはすれ違う他者の姿は映り込みすらしない。見えざる存在なのだから、そこから発せられている声などそもそも届きようがない。警察に引っかかるのは何かと面倒くさそうだ、だからとりあえず逃げてみる、そこにはただ脊髄的な反応だけがあって、その後にはいかなる罪悪感も残りようがない。権力への抵抗だ、武勇伝だ、などいう思春期めいた自意識すらもそこにはない。

 奇しくも、このありさまははちょうど先の「ごく普通の感情のはたらきを持つ農家のおばさん」の眼中に彼らの存在が入ってすらいなかったことと鏡合わせに相似する。

 底抜けに透明、表象はある、表象しかない、だから見えない。

 

 こうした視線の断絶は、実は「ボドイ」の間ですらも、少し違った仕方で走っている。

 フェイスブックにしばしばパーティーの様子をアップするなど、同じ施設内で共同生活を営む「彼らは一見するとアットホームで互いに支え合っている仲間同士であるかに見えて、実は個々のメンバーは意外なほど、“他者に冷淡かつ無関心”という特徴をもっている」。その日その場を淡白にやり過ごし、たまにヒャッハーと盛り上がってみたところで、互いの素性を告白し合うことなどまず起きない。そうして誰かが突然に抜け落ちては、また別の誰かがやってくる。

「群馬の兄貴」、「栃木の兄貴」とあだ名される人物にもヒアリングする。半グレ風味の面構えから過去に組織犯罪の元締めかと日本の警察に疑われたこともあるが、事実としてはこの淡白な人間関係から整然としたトップダウンの指揮系統など生まれようはずもない。親子だ、兄弟だという古臭くも濃密なヤクザやテキヤのモデルを彼らにそのまま重ね合わせようとする捜査当局は、そしてその度空振りを余儀なくされる。

 

 ただし他方で「ボドイ」は、アルコールを手土産にアポなしで訪問する筆者や通訳をあっさりと家に上げては話を聴かせてくれたりもする。

 そしてしばしば、筆者は特有の臭気にさらされる。

 あるときは「トイレから漏れ出すアンモニア臭、さらに生ごみの匂いと男たちの体臭」、またあるときは「安普請の古い木造家屋の加齢臭じみた臭気とベトナム料理の匂い、多数の人間の体臭が入り交じった独特の空気が、マスクの隙間から鼻腔に飛び込んできた」。とあるメンエス嬢を取材した折には、「安いボディーソープとうがい薬とタバコ臭、さらに汗臭と体臭とカビ臭が入り交じった、ケミカルとも動物的とも形容しがたい臭気」を嗅ぐ。

 奇しくも2020年のアカデミー賞作品賞に輝いた『パラサイト』でもターニング・ポイントとなったのは、半地下の住人に特有の匂いだった。消すことのできない匂いは彼らとその外側をどうしようもなくセパレートする。匂いの違いとは階層の違い、すなわちコードの違いだった。視線が通わない、ことばが通わない、感情が通わない、その象徴がすなわち匂いだった。

 こうした断絶を先取りしていたのが、2018年の是枝裕和万引き家族』だった。窃盗をもって維持されるこの疑似家族の暮らしは、しかしその行為にほぼ一貫してなんらの疚しさや後ろ暗さがかすめることもない。なぜならば、彼らと世間のあいだにはコードが共有されていないから。

 過去作『誰も知らない』は、そのタイトルとは逆説的に、誰かしらが知ることによってバッドエンドを回避できたかもしれない、という希望を一縷ならず端々に滲ませてはいた。しかし『万引き家族』において、その糸は絶たれた。もはや知りようがない、なぜならばコードが共約不可能だから。『誰も知らない』においてネグレクトされた少年たちの住まいから既に放たれていた異臭のその意味は、是枝の作品内論理においてもいよいよ決定的に社会との切断の象徴となった。

 ネグレクトにさらされてパチンコ屋の駐車場に放置される少年を引き受けるその行為は、社会のコードに則れば、紛れもない連れ去り誘拐に他ならない。社会から予め見捨てられた彼らが互いに相集うその営みに、社会のコードは決して家族を認めようとはしない。だとすれば、コードから既にこぼれ落ちている不可視の彼らが、欲しいものがあったら対価を払う、そんな商品経済のコードからこぼれ落ちてしまうのも必然だった。

 

 文明の衝突だ、グローバリゼーションのひずみだ、などという御大層な話ですらなく、本書のテーマをコードの問題として読み換えるとき、「ボドイ」が日本社会に暗黙につきつけているものについて国籍云々という観点から論じたところで何の実効性が生まれることもない。郷に入っては郷に従え、こんな命題を彼らの視界の外側からいくら唱えられたところでそもそも通じようがない。

 これが単に外国人実習生の問題であったならば、筆者が予言するように「非常に簡単な解決方法が存在している。

 これから長くても15年ほど、何もしないで待っているだけでいいのだ。そうすればベトナムと日本の経済格差が縮小し、ボドイは日本社会から消える。往年の在日中国人の不法滞在者やマフィアが、いつの間にかほとんどいなくなったのと同じ現象が起きるのだ」。

 労働力の確保という命題にすら背を向けて一切の外国人の受け入れを拒んだところで、密入国も防げたところで、強制送還も実践できたところで、常識が常-識であることをやめたコードの共約不可能性に基づく、いわば純国産「ボドイ」の発生を食い止めることなどできやしない。見たいものだけを見る、見たくないものは見ない、そんな今日のむしろスタンダードなしぐさを「ボドイ」もまた、行使しているに過ぎないのだから。例えばスマホアプリで高額報酬の闇バイトにつられるがままに、仕事として引き受けただけと悪びれることもなく淡々と語る彼らに共通する匂いを嗅ぎつけてしまうのは、おそらく錯覚ではない。今まさにトー横キッズをフィールドワークするとき、たぶんそこからは同じ匂いがほとばしる。

 そこには、例えばハンナ・アレントが「凡庸な悪」と名指した事態すら存在しない。なぜならば、「悪」を「悪」と呼ぶためのコードが共有されていないのだから。むしろだからこそ、ジョルジョ・アガンベンが「ホモ・サケル」と呼んだむき出しの生が尖鋭化されたかたちで横たわらずにはいない。

「いま、北関東の『移民』地下社会から見えている景色は、将来の日本の姿である」。

 

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