社会契約論

 

香港デモ戦記 (集英社新書)

香港デモ戦記 (集英社新書)

  • 作者:小川 善照
  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: 新書
 

 

 ここまでの経緯を簡単にまとめる。デモの引き金になったのは、犯罪者を外国に引き渡す「逃亡犯条例」の改正である。この条例改正が実現すると、中国・北京政府が犯罪者と認めた香港人、外国人を香港で逮捕することができるようになり、そのまま中国に送ることが法律上可能になる。市民は猛反発し、条例改正反対の大規模デモに繋がった。69日のデモで103万人の参加者が通りを埋めつくした。……

5年前の雨傘運動とは明らかに違う。今回は、明確なリーダーがいない。そのため、烏合の衆となる危険性がある」

 香港の研究者、取材者たちの間では、103万人デモの後、実は、こうした懸念が語られていた。……今回は、そういった名前を出して先頭に立っているような、明確なリーダーが存在しないのだ。

 

「明確なリーダーがいない」。そもそもからして、「民主派」という立場が明確な定義や確固たる基盤を持つでもない。例えば民主党元代表、エミリー・ラウにとっての民主化の定義、「香港の民主化運動はやがては中国大陸にも波及していき、それが実現したときに、香港の真の民主化も達成される」。ところがそうした展望を生ぬるいと一蹴する勢力もまた、「民主派」には含まれている。香港ファースト、「本土派」の存在だ。「香港人の本土は、中国大陸ではなく、ここ香港である」、そう公言してはばからない彼らの怒りの矛先は親中派よりもむしろ、ラウのような「民主派」へと向けられる。目には目を、で警察と対峙する「勇武」の存在は既に各種映像で知られる通り、対してデモ隊の圧倒的多数を占める「和理非」がクローズアップされることは滅多にない。和平、理性、非暴力の頭文字を取って「和理非」、なるほど映えない。

 

 インバウンドが生んだのは、「人が住んでいない新築のタワーマンションと、入りたくても入れない古い公営住宅」、結果、若年層はマイホームを早くに諦めざるを得ない。

 アメリカにおける赤と青、あるいは白とそれ以外の分断と同様に、香港の地でも藍と黄の分断が進む。「黄色経済圏として、どうせお金を落とすならば、デモ隊支持の自分たちの仲間のところで、ということなのです。逆に親中派の店[藍色]には、一銭も落としたくないと。飲食店から金融機関など、あらゆる店舗やサービスが、分類されているのです」。

 各種調査が示すにこの黄と藍の支持比率は概ね6:4、しかし「民主派」が議会の多数を形成することはない、というのも、「予め職能団体に割り振られた議席と、直接選挙で選ばれる議席の二通りがあり、職能団体からしか出馬できない枠は、親中派ばかりが当選し、結果、民主派が絶対に過半数を取れないような選挙制度となっている」ためだ。

 要するに、「社会が完全に壊れてしまっているのです」。

 本土派が自らの抵抗活動について語る。

「私たちは暴力(バイオレンス)とは思わない。それは武力(フォース)だ。警察は抗議者に向かって『武力で鎮圧する』と言う。合法的な暴力として武力と言う言葉を使っている。私たちも同じだから、警察に対抗するには、武力しかない」。

 筆者は「こじつけの言葉遊び」と一蹴するが、それこそがG.ソレルやH.アレントといった暴力論の系譜への無知というもの。権力がもはや正当性を欠いた状況で行使する一切の権限は、それがいかなる合法性の追認を受けようとも、もはや暴力に過ぎない。正当性に裂け目が入った状況下で、暴力はいけない、という命題はもはやいかなる意味をもなさない。せいぜいが黙殺する側が自らを守るためのおためごかしというに過ぎない。そもそもの正当性が破綻した社会においては弱きものの主張など一顧だにされない、ならば暴力に訴える他ない、このロジックを否定するのは、マイノリティへの言葉狩り、強権政治への翼賛といかなる仕方においても差異を持たない。

 

 既に崩壊した社会の中で、ただし香港は、破壊志向の排外主義とは別に、それに代わる選択肢を提示している。

「明確なリーダーがいない」、しかし彼らには「リベラルスタディーズ」がある。「香港の高校では、答えがない社会問題に対して、生徒自らに考えさせます。何が問題なのかを考えて、それを解決していく力をつけるのが狙いです」。各人が思弁を通じて見出したまともさが、理性の導きのもとで、結果として共通了解の輪を形成する。いみじくもジャン=ジャック・ルソーが「一般意志」と名指した事態がそこにある。

 無論、「民主派」が一枚岩ではあれない理由は「明確なリーダーがいない」点にその一因を持つ。「何が問題なのか」というフレームの設定がプライオリティの差として現れ、延いては立場の違いを誘発するように、意見集約の過程において「明確なリーダーがいない」まま、現実の物事を進行させていくことはほぼ不可能に等しい。女王蟻と働き蟻の関係に等しく、社会分業という以上の意味を「リーダー」に認める必要もないのだが、さりとてその「リーダー」の選抜をめぐる民主政システム構築の不可能性というK.アローのテーゼもちらつかないことはない。

 課題を言えばキリがない、この場合はとりわけ、できる理由を探すよりできない理由を見つける方がはるかにたやすい、ならばいっそ思考停止してスーパーマン――ということになっている誰か――のパターナリズムに全権委任してしまえばいい、そんな誘惑に駆られないこともない。しかし、あるいは解決されることのないかもしれない社会問題を論理に立脚して考え続ける、まさに「自由」を体現するその行為こそが人間を人間たらしめる。どんな混沌が待ち受けようとも、「一般意志」の礎としての理性すらも放棄したサルの山よりは、あまりにか弱き考える葦による模索それ自体の尊さの一点において、「日々の人民投票」(E.ルナン)は限りなく麗しい。