「わたしたちはここにいる」

 

 本書は、1997年から2020年までの、多くの人たちが未来を信じていた時期の記録だ。各章では、個人的な話から入って香港のさまざまな面を描き、生き残りを懸けた試練のなかで共同体意識を築こうとしたことが書かれている。ソファで寝起きして、22人のルームメートと暮らしていた話、みなが政治的なトラウマを抱えていた時期に鬱病と闘っていた話、催涙ガスから逃げ惑っていた話、そして、そんななかで出会った同士や仲間たちの話も入っている。各章では、分野は異なるが関連性のあるサブカルチャー、歴史的瞬間、香港での生活についても取り上げている。前半部は回想録といった形に近く、後半部はルポルタージュや文化評論に近い。年代順に進んでいく章がほとんどだけれど、たいてい2019年で終わる。……

 本書には命を懸けて中国と闘う未成年のデモの参加者の話や、抗議デモの指導者たちの生い立ちのことは書かれていない。「なぜ彼らの親が中国共産党から逃れて香港にやってきたのか、彼らが抗議デモをするのは自由が脅かされているからだ、香港を去るのは希望を失ったからだ」といったことを説明するための本ではない。植民地時代の歴史は書かれていない。植民地時代の歴史書は数多く出版されている。わたしがここで書いているのは、香港のなかの気に入っている場所、この都市で育つとはどういうことだったのかということ、同世代の作家やジャーナリスト、アーティスト、ミュージシャン、活動家たちのことだ。わたしたちが生きた証だ。

 また、ひとつの都市が消滅していく多くの方法について書いているが、その都市に暮らす人々が生き残っていく多くの方法についても書いている。ある時間と場所における生活の記録だ。ずっとここに存在していた香港をわたしたちがいかに発見したかを語るものであり、激しい抵抗にあいながらもわたしたちが故郷にした土地の話である。

 

「わたし」は何も知らなかった。

 1997年、香港返還を迎えたとき、「わたし」はまだ幼稚園児だった。運命の71日を迎えはしたが、その暮らしの何が変わることもなかった。「朝、幼稚園の友だちの家が経営する店が作る塩漬けの豚とピータンの入ったお粥と、油條」を食べ、「幼稚園から帰ると、TVBの子ども向け番組で午後4時から始まる日本のアニメを見ながら、2香港ドルのチーズリングのお菓子を食べて、指についた人工着色料のオレンジ色の粉をなめとる」、そんな日々が続くことが文書により合意されていたはずだった。「今のところ『香港人が香港を統治する』ことが約束され、わたしたちの生活は50年間変わらないとされている」はずだった。そうした日常を前に、「なにも知らない母国をどうやって愛せるというの?」

 やがて両親は離婚し、母は弟を連れてシンガポールへ、そして「わたし」は父と祖母の香港に残された。何を訴えようとも、「あんたは孝行者じゃない」と咎められた。この「孝行」という儒教概念が、長子というだけで甘やかされて身勝手極まる父へと育て上げたことも、彼との不和から「わたし」が長じて精神を患う引き金となったことも、ただのガスライティング促進装置でしかないことも、なのに祖母への慕情を断ち切らせぬことも、「わたし」はまだ知る由もない。

 香港という風土が自ずと政治への意識を醸成せずにはいない、そんなミラクルはまさか起きない。2003年の国家安全維持法案提出を受けてのデモにも家族は誰ひとり参加したりはしなかった。官製バブルの「土地問題」すらも、「不正なゲームが仕組まれたこの街では、どちらを向いても居場所を見つけることはできない」との諦念をいざなうにすぎない。ジェントリフィケーションによって書き換えられていく街並みにいったい何ができるというのだろう。2014年の雨傘運動すらもどこか他人事だった。その帰結は留学先のグラスゴーでネット越しに追った。それから間もなくジャーナリストとしての一歩を踏み出した際にも「活動家たちが体験した政治的な覚醒の瞬間にこだわ」らずにはいられなかった、つまり、その初期衝動がこの段階の「わたし」には決定的に欠けていた。

 

 しかし、そんな「わたし」が気づけば、香港のために声をあげる側へと回っていた。

「ある場所に属するとはどういうことなのか? わたしは物心がつく頃にはもう、捨てられるとはどういうことかわかっていた。20代になって、この街に関する素晴らしいコミュニティ紙を自費出版している近隣の人々や、想像を絶する状況で制作を続けるアーティストやミュージシャン、通りを占拠して運動を再定義する友人のなかに故郷を見出した。……香港のための闘いについて語るとき、『民主主義』や『自由』、『基本的な道徳的責任』といった言葉をちりばめはするが、本当は友人たちの未来のために、友人たちの無事と幸福のために抗議しているだけなのだ。とりわけ香港から出ていきたくても出ていけない友人や、生活が政治と絡みついていて参加するしないという選択すらできなかった友人のために」。

 そうした「わたし」の安全基地のひとつが、工業ビルの廃墟だった。ただ単に「放棄された倉庫の賃料が安く、ライブが開催できるほど広く、住宅地から離れているために騒音で文句を言われる心配がなかった」、そうして半ば消去法的に選ばれたその場所が、インディーズの聖地となった。「わたちたちは本当ならここにいてはいけないのだ。それでも、わたしたちはここにいる」。歌詞をもって「わたしたち」は結びつくのではない、その前にまず「ここにいる」、その一点をもって「わたしたち」は「わたしたち」でいられる、ここに至って「わたし」ははじめて香港を発見する、あるいはこう言い換えるべきだろう、「わたし」は「わたし」を発見する。

「ここ」で「わたしたち」が話している通りのことばで、歌っている通りのことばで香港を語らなければならない。「わたし」は気づく。「植民地支配者の言語である英語で書くこと、それよりさらに悪いことだが、英語で書くことを『選ぶ』ことは、母語に対する絶対的な裏切りだ」。

 インターナショナル・スクールの出身者が「グローバルな市民」の目線に基づいて発信する記事をもって他国の人々は専ら今香港で何が起きているかを知る。彼らは「民主主義」への脅威として、「自由」への危機として一連の情報を伝えずにはいられない、そして受けてもまた、事実としてそうした情報を欲してやまない。しかし「わたし」に言わせれば、それはカードの片面に過ぎない、あるいは片面ですらない。「本当は友人たちの未来のために、友人たちの無事と幸福のために抗議しているだけなのだ」、そのことばはまず何よりも「地元」のことば、広東語の音をもって報じられなければならない。

 ある種の映画作品は、「地元の観客の共感を呼ぶ香港文化の一面に触れているが、香港に住んだことのない人にすぐに理解されるとは思えない」。「わたし」はここに至って知るのである、「民主主義」のために闘うことなんてできない、「香港に住んだことのない人にすぐに理解されるとは思えない」何かのために、「完全に翻訳することができない」何かのために、そしてそれを授けてくれる彼らのために、気づけば立ち上がっているのだ、と。

 そうしてその営みにはじめて、民のことは民のために民が決める、そんな「民主主義」のまだ見ぬユートピアは立ち上がる。

 

 わたしたちはよく、香港の『消失』を世界滅亡のときにたとえて話すことがある。アトランティスのように香港が水中に沈んでしまう、と。だが、それよりずっと可能性が高いのは、近い将来、香港の風景が物理的には変わらなくても、以前ここにあった場所のことを覚えている人がひとりもいなくなってしまうことだ。それがいちばん怖い。高層ビルの風景は変わらず、田舎の散歩道の美しさも変わらず、港には夜の光が落ちる。仕事に行き、くだらないことをツイッターに投稿し、一見してなにもおかしなことはないのだが、まだそこに残っているのは、それが最高の香港の姿だと思っている人だけだ。

 

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