沢田教一はUPI通信社カメラマンとして、自らベトナム戦争へ飛び込んでいった。
イア・ドラン渓谷の戦い、DMZ(非武装地帯)侵攻作戦、875高地の戦い、ケサン基地、ユエ王城攻防戦、サイゴンの5月攻勢、そしてカンボジア侵攻作戦など、激戦地には必ず、米軍の軍服に身を包み、首から2台のライカを下げる沢田がいた。……
川を泳いで銃弾の炸裂する村から、対岸へ逃げようとするベトナム人母子の写真。「安全への逃避(フリー・トゥ・セーフティ)」と名付けられた1枚の写真は、沢田が戦場で撮りまくった何千ショットのたった1枚にすぎない。この写真は、1965年ハーグの世界報道写真展グランプリに輝き、続いて1966年アメリカ海外記者クラブ賞、同年ピューリツァー賞の三冠を獲得した。
1枚の写真が、青森生まれの一青年の人生を大きく変えていった。一介の無名カメラマンが一躍“世界のサワダ”になった。それは、東北のアメリカと呼ばれた「三沢基地」のカメラ店に始まり、UPI通信社東京支局写真部、そしてベトナム戦地へと続く“三段跳び”の人生でもあった。
彼の履歴をたどるとき、確かにその行動原理は家計を通じて少なからぬ説明を与えることはできそうだ。
寺山修司の同級生だったという彼が、2年の浪人を重ねても大学受験をパスできず、カメラ店に就職したというのも専ら家計の問題ならば、そのストアが三沢のPXに支店を持っていたというのも紛れもなく経済の問題だった。そうしたプロセスの中でブロークンな英語を会得していったのも生きるための糧ならば、基地経済の縮小に伴って押し出されるように東京へ向かったのもまた、生計のためである。三沢でのコネを伝って潜り込んだUPI通信でめきめきと頭角を現した彼に社が差し出した条件は、「週給125ドル、3カ月に1回の休暇」、1960年代の日本企業ではまずもって望みえない好待遇だった、しかしそこには但し書きがついていた、「東京支局に帰った時は、日本人の給料に戻す」と。この付則が彼をなお戦場に立たせ続けたとの解釈には、なるほどそれなりの説得力は認められよう。
しかし、給与のインセンティヴが彼が幾度となく目撃した死線の恐怖を打ち消せるほどのものであったようには見えない。身近に接してきた従軍記者たちが次から次へと命を落としていた。彼自身の眼前でカメラマンが肉片に変わってしまう場面にも一度ならず遭遇していた。彼だって一度はクメール・ルージュに囚われている。写真集を出したいという名誉欲もあったには違いないのだろうが、果たしてその執念だけで前線に立ち続けられるものだろうか。社会正義への使命感や個人的な好奇心が彼を突き動かしていたというのも、少なくとも周辺からの証言等による限り、その人物像にはあまりそぐわない。
たぶん、それが原著の出版された1981年という時代の限界だった。
現代の読者が改めてあえて本書に触れるとき、幾多の危機をくぐれども戦場を離れることができなかった沢田に果たして何が起きてしまっていたのかを手に取るように説明できることばがある。
PTSD。あるいは例えば戦闘ストレス反応などとも呼ばれる。
もちろん、過去の数多の戦争の中でこの症状を呈していた帰還兵たちは山のように存在していたことだろう。しかし、この概念の発見にはベトナム戦争後のアメリカ本国における分析をどうやら待たねばならなかった。
その戦争のただ中に自らを放り込み、そしてカンボジアで散った沢田には、まさか知る由もない。
「ベトナム戦争にはどうしようもないほどの魔力があった」。
かつての現地記者たちは、筆者のインタビューに対して口を揃えてそう証言したという。
「全員生きていたという時のあの感動、同じ死の危険を経て結ばれる連帯感というのは、若い米兵も本国では経験できなかったものでしょう。一般の生活に絶対ありえない緊張感です」。
「あのギラギラ輝く太陽、夜の闇の深さ、人間臭い喧噪、いつどこから弾が飛んでくるかわからないという生活。日本人のような島国に住んでいる人間にはのめりこんでしまいそうな魅力がある。ベトナム戦争というのは、ある意味で一度味わうと中毒症状を起こさせるものでしたね」。
「ベトナム戦争を取材していた者にとって、戦場ほど面白いものは他にないんだ。今ここにいてボート・ピープルを撮るといっても、死にそうな母親や子供たちを撮るばかり。毎日同じ写真なのさ。でも、ベトナムではいつも全く違う写真が撮れた。次に何が起こるかわからなかったからね」。
前線で日々味わう極限こそが彼らにとっての日常となった。「平和はニュースにならな」い。そこには何の興奮もない。それどころかあるいは、フラッシュバックを与えるための無為な余白ですらあったのかもしれない。
読むほどに、ひとりの人物が沢田と重なっていく。
クリス・カイル、イラク戦争で米軍史上最多の射殺を成功させた狙撃手、あの『アメリカン・スナイパー』である。
シミュレーターの実験に際して、いざ戦闘シーンに入るとカイルの心拍数や血圧はむしろ下がり、そしてコンプリートすると逆に数値は跳ね上がった、という。
彼が平静でいられる瞬間は戦場にしかなかった。
いみじくもそのテキスト内に、以下のような告白がある。
「基地では何もかもがどうしようもなくゆっくり進んだ。何も起こらなかった。そのせいで私の心は蝕まれていった。
戦場のさなかにいたときには、自分が傷つき、死ぬかもしれないという考えを押しやることができた。あまりにいろいろなことが起きて、心配している暇もなかった。というより、ほかにやるべきことがたくさんあったので、本気で向きあわずにすんでいた。
それが今ではそのことばかり考えていた」。
奇しくも、射撃もshootならば、カメラのシャッターを切ることもまたshootという。戦場カメラマンもおそらくはシューターと同じ内攻に身を苛んでいた。
「死ぬ時には一発で死にたいな」。
彼らはともに銃弾の一閃をもってしか、この狂おしき日々からの解放を持つことができなかった。
沢田教一にとっての写真とは、すなわち捨身だった。