日本との繋がりができたのは、1989年、33歳のときだった。版画作品の展示・販売を手がけるアールビバン株式会社と作品の販売契約を結んだことにより、それまではハワイ・ローカルの作家だったラッセンは、日本で巨万の富を生む存在へと変貌していくこととなる。日本で90年代に巻き起こった絵画ブームを牽引したラッセンの作品は、当時の日本人にとって「アート」の代名詞として、ピカソやゴッホと並ぶほどに大きな知名度を獲得したのだ(しかし2023年現在、ラッセンのWikipedia項目は日本語版しか存在しない程度に、彼は日本以外では「知られざる存在」でもある)。……
1989(平成元)年の日本デビューから30年強、その間に「平成」という時代は終わりを告げた。その受容のかたちは変わりながらも、一貫して日本に愛されてきた画家ラッセン。その知名度に反して、私たちは意外なほどに彼の歩みを知らない。
そこで本書では、彼の人生を辿っていきながら、同時に、ラッセンを愛した日本とは何だったのかを改めて考えていきたい。その意味で本書は彼の足跡を辿った評伝でありながら、その受容のされ方を通して見た日本文化論である。
この双方の絵画史的な評価が(つまり、それは取引実勢価格の高低に限りなく等しい)何によって分かたれるかといえば、それは何よりもインフルーエンスの多寡に比例する。
フィンセント・ファン・ゴッホを論じるための美術の言語には、枚挙に暇がない。印象派、ジャポニスム、フォーヴィスム、そしてとどめは表現主義――生涯にただ一枚の絵も売れなかったという彼は、にもかかわらずその後に残したインフルーエンスをもって歴史に不滅の名を刻んだ。自らの耳を切り裂いた挙げ句に拳銃をもって最期を呼び寄せた、そうした語りを真に受けているに過ぎないのに、人々は作品の中に激情が込められていることを、そしてそれを自らが読み解けていることを信じて疑わない、そうしたストーリー・マーケティングの成功例としても、今なお彼の関連書籍が世に溢れ返っているように、生前ほぼ誰にも見向きをされなかったはずの彼はインフルエンサーと呼ばれるにふさわしい達成を遂げた。
対してクリスチャン・ラッセンには、少なくとも今日に至るまで、美術史の中にその名を残して然るべきインフルーエンスの痕跡を観察することができない。何かしらの仕方で業界の最先端サークルにコミットすることで相互フォロー関係を築くことのなかった彼にとって、自身で公言することこそないものの、おそらく最高の師といえばテレビ番組『ボブの絵画教室』だった。たった26分で一枚の油絵を完成させるフォーマットの中でしばしば用いられた手法にウェット・オン・ウェットなるものがある。ラッセンの初期絵画にもその痕跡が随所に見られるというが、しかしパレット上で乾き切らない顔料を混ぜ合わせるように描き進めていくというその技術自体は、別に何ら新しいものではない。むしろ当時のモダン・アートのトレンドからすれば、今さら誰も強調しようとも思わない手法である。彼がその技法の再解釈を通じて新たな流行を切り開いたというインフルーエンスも確認できない。しかし「美術館や大型書店の存在しないマウイ」で育ったラッセンには、そんなハイ・ブロウなコンテクストやコミュニティが存在しているということすらも、知る由もなかった。彼がアクセスし得た「アートワールドの『生態系』」といえば、日曜画家に毛の生えた人々の絵を展示する地元ギャラリーが関の山だった。ラハイナを訪れる観光客が想像するひねりのない「楽園」モチーフをひねりのない手法やパースをもって提示する、凡庸なクライアントの求めに凡庸な絵画をもって応じる、そして凡庸な対価を頂戴する、その職業的凡庸さを評価するための言語を美術界が想定できないのは当然のことだった。
しかし言い換えれば、それはあくまでも美術界のジャーゴンを評価軸に据えた場合の語りにすぎない。ゴッホにはゴッホなりのコンテクストがあり、ラッセンにはラッセンなりのコンテクストがある。逆の側面から覗き見れば、「ゴッホより普通にラッセンが好き」な人々にとっての絵画を、ゴッホがなぜにインフルエンサーであれるのかを知らない人々にとっての絵画を表現するための言語を美術界が今日に至るまで疎かにし続けてきたというその証というに過ぎない。語りのパラダイムを異にするゴッホとラッセンを、単に絵画というだけで同じ俎上に並べたところで何が生まれてくることもない。ましてや才能や感性などという脳障害のサルの幻覚の居場所などこの世界はもとより持たない。
ラッセンにはラッセンを語るための歴史的文脈がある、言語がある、旧来の「アートワールドの『生態系』」によっては通約不可能な。
反面、コミュニケーション領域の異なるラッセンとゴッホの並列処理を可能にする言語が確かにある。つまり、エコノミーである。
「ゴッホより普通にラッセンが好き」な人々は、件の美術史的なインフルーエンスなど知る由もない、しかしその価格を通じて何かしらの裏付けがそこにあるのだろうということは推測できる。そしてこの基準に従えばむしろ、紛れもなく「最も多くの人々に愛され、買われている」のは、ヒロ・ヤマガタであり、ラッセンなのである。
現代美術の相互参照関係の外にある人間は、そこに何が描かれているのかすらも読み解くことのできない絵画よりも、とりあえず極彩色をもってイルカや海が描かれていることくらいは分かる絵画を好む。それは極めて率直で健全なレスポンスである。その選好は投機の現場――画商やキュレーターとの共犯関係の中でほんの一握りだけが享受する――においては冷笑を浴びるかもしれない、しかし事実として一定のシェアを持ったマーケットを見事に開拓してみせた。王侯貴族と教会権力のパトロナージュの延長線上にすぎない権威主義から購買力を持った消費者による自由主義の市場へ、ラッセンはそんな民主化の象徴なのかもしれない。
そうした市井の人々を前に、現代美術家たちが「律義に近代美術の講釈を始めたところで、歴史や知識に頼らざるを得ないアートの脆弱さにかえって気づかされるばかりだ」(中ザワヒデキ)。
期せずしてラッセンは彼らが迷い込んだラビリンスをどうにも告発せずにはいられない。遠近法やらのテンプレ的な手法をなぞることで写実的だと人々を唸らしめる絵画など、たぶん彼らはいくらでも描くことができる。あるいは、それしきのことはもはやスクールで師事せずともYouTubeやTikTokで習得できるような何かでしかないのかもしれない。しかしだからこそモダンの果ての彼らは、ひとたび合理的に確立されたその技法を解体して、何か新しいもの、これまでにはなかった何かを追い求め、そして理解の外側の「知られざる傑作」へと流れ着いて今に至る。
彼らがラッセンやヤマガタの名に「聞いただけで耳を覆いたくなるような不快感」を覚える理由は、まさにこの陳腐さにある。もっともこの嘆き自体もまたひどく古典的な新味の欠片もない代物で、1世紀前にパウル・クレーやエゴン・シーレらが繰り出していた批判を超えるものは何もない、いみじくもそれは彼ら自身がコピペ的存在でしかないことを証明するかのように。まるで機械工学のように量産技術化されたアカデミーに背を向けて、オリジナリティという幻影に憑かれた彼らは今日も荒野をさまよい歩く。
ハイ・カルチャーであることもメイン・カルチャーであることももはやできないこの旧態依然たる彼らをあざ笑うかのように、皮肉にもラッセンは彼らが恋焦がれてやまないオリジナリティをあるいは手にしてしまったのかもしれない。
メタを決め込む彼らをよそに、1990年代に「ベタ」性をもってこの世の春を謳歌したラッセンは、2010年代に至って「ネタ」へとメタモルフォーゼした。
いや、彼自身は変わらなかった、変われなかった。変わったのは彼の消費のされ方だった。
きっかけは#vaporwaveだった。ソフトの中のサンプル素材として組み込まれていたラッセンのアート・ワークが、「バブル期の日本」の象徴として、数多のクリエイターたちに取り上げられて、そしてバズった。少なくとも現代美術家の目からは何らの特徴も持たないはずの彼の凡庸な絵画が、他の作家では調達できない固有のラッセン性を人々によって肉づけされる。そこから波及するようにももクロやどん兵衛とのコラボを果たす、そこに人々は確かにラッセンでなければ満たせない何かを見ていたに違いない。
作るのではなく作られる、社会の潮目が彼にオリジナリティを付与した。
すぐれて現代のSNS的な双方向性を図らずも具体化することで確立されたこのオリジナリティを、コンテンポラリー・アートの象牙の塔でいったい誰が実現できているというのだろう。
クリスチャン・ラッセンの実像を象徴するようなエピソードが取り上げられる。
1998年に彼はアルバム『TURN THE TIDE』をもってミュージシャンとしてデヴューを果たす。
ところが驚くべきことに、ここに収録された全10曲のうち8曲は既存の楽曲のカヴァー、しかもそれでいてその旨は明示されていない。クオリティについても「カラオケ」レベルを超えるものではない、という。インタヴューで好きなミュージシャンを問われて挙げたのが「ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ピンク・フロイド」、引用しているだけで共感性羞恥の疼きが止まらなくなる、いやもはやハートの強さへの羨望を抑えられなくなるラインナップである。
おそらく美術をかじった者どもにとって、彼の絵画はこれと大差のないレヴェルにある。
ただし、他の遍くサービス業と同様に、ニーズやウォンツに応えることをもってアートの社会的使命を定義するならば、内輪受けに終始する他ない彼らはすべからくラッセンへの屈従を余儀なくされる。
「ベタ」な人々が「ベタ」を愛する、彼ら大衆の鏡像としてクリスチャン・ラッセンの成功はそのすべての説明関数を与えられる。そしてその達成は、何よりも経済によって証明される。