仮面舞踏会

 

「せつなって、本当にせつな?」

「私」こと石田雪那はジュニアアイドル。事務所に入所する際に母が関係者に促されるまま、ひらがなで契約書に記したのが、「石田せつな」というその芸名だった。

「なんか、美砂乃ちゃんは『美砂乃ちゃん』まで言わないと美砂乃ちゃんっぽくない感じがするんだけど」、そんな「私」のことばを遮るように、彼女は自分のことを「みさ」と呼ぶように懇願した。そうして「わたし」のことを「ゆき」と呼ぶようになった彼女とは対照的に、「私」はずっと「美砂乃ちゃん」という呼び方を変えることができずにいた。

「美砂乃、ばかだから」。

 当時の「私」には、その口癖を持つ彼女のことばの真意など知る由もなかった。

 

 たまのレッスンとオーディションだけでさして売れているわけでもないけれど、水着グラビアなどの活動のために中学校でいじめの標的となった「私」にとって、好きな少年マンガ『両刃のアレックス』を二次創作した夢小説サイトだけが心のよりどころだった。印刷物ではかなわないとある特性がそのページでは活用されていた。つまり、キャラクターの名前を好みに設定できる、という。一度別のサイトで本名を入力したことがあったものの、「最後まで読み切って物語の一部になった気分でいると、あとがきのページで『雪那さん、ここまで読んでくださりあちがとうございました!』と、それまで私を甘やかした物語がふっと他人の顔で深々とお辞儀をして、さぁ早く帰れ、と私を突き放す。それから夢小説でも名前は空欄のままで読むようにした」。ちなみに、「空欄の場合##NAME##と表示されます」。

 そして時は流れ、就活中の大学生となった「私」は、『両刃のアレックス』の原作者が児童ポルノ禁止法により書類送検されたことを知る。その条文が規定する児童ポルノの要件とは、「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、臀部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの」をいう。「制服の下にスクール水着を着せられて、ホースからの水を浴びながらそれを脱いでゆく撮影が数回あった」、そんなジュニアアイドル時の石田せつなの作品を所持することは、おそらくはその規定に抵触するものだった。

 現代人の性として、新たに知り合った人物について往々にしてネットでサーチせずにはいられない。もしかしたら単にSNSのアカウントを紐づけるために行ったに過ぎないだろう「石田雪那」というその検索は、児童ポルノの消費対象としての「石田せつな」の過去をさらさずにいない。そうして「私」は家庭教師の職を解かれた。就職においても、あるいはこの件が尾を引かないとも限らない。##NAME##と同じ、入替可能な「ただの私の指示語でしかなく、私を指すだけで私の意味ではないのに、自分の名前でいるだけでいつのまにか片目を後ろから誰かに塞がれているみたいに、世界との遠近感がわからないまま歩いているようだった」。

 そうしてはじめて気づく、なぜに「美砂乃ちゃん」が「みさ」と呼ばれることに固執したのか、「私」を「ゆき」と呼ぶことに固執したのか。

 奇しくも夢小説の中でアレックスは##NAME##に向けて言っていた、「まともに傷ついてどうする」と。まさに「まともに傷つ」かないためにこそ、多重人格的に被写体として「世のお兄ちゃんたち」の餌食となる「ばか」な「美砂乃」を突き放すことで辛うじて、彼女は「みさ」という己の自我を維持していたことを、ようやく「私」は知らされる。

 

 ジュニアアイドルの過去を知るとある人物から「私」は投げかけられる。

「どうして被害者だったくせに黙っているの。黙認しているならあなたも闇の一部なんだよ。ちゃんとさ、怒りなよ」。

 そう言われても、「私」には「また、闇だ」とため息をつくことくらいしかできない。「自分の知らなかった領域やそこにいる人々に出くわした時の、手に負えない現実を見切る時の呪文」としての「闇」と面と向かって言われても、余儀なくされたエポケーの中でせいぜいがことばにならないその衝動を暴発させることくらいしかできない。

 典型的な#metoo案件として傍からは映るだろう「私」は、にもかかわらず、立ち上がることができない。なぜならば、meとしての感覚すら「私」からは失われてしまっているから。「闇」と規定される対象としての「私」は、自らを主体として認めることができない。

 だから「私」はふとしたタイミングで漏らさずにはいられない、「物心がつく前のことだから」と。「小学校二年生どころか、ミラクルロード[事務所名]に所属する前のことのほとんどが境界を失って融け合っていた。思い出そうとしても所属してからの日々が記憶の中でしこりのように硬結して、それ以前への遡及を遮っている。そのしこりは四角くもあり球体でもあり、呼び名のわからない形をしていた」。

 いみじくも、「英語の授業でshootという単語が出てきて、銃を撃つショットや球技のシュートと、レッスンシュートの『シュート』はすべて同じなのだと知った。本物の銃声を聞いたことはないものの、ドラマや映画で鳴るものと、ストロボと共に降り注ぐ音は少しだけ似ていた」。

 視線の標的として一方的に眼差されるその経験は、イシダセツナという仕方で##NAME##のその空欄を埋められる「私」をとうにシュートしていた。

 

「物心」の向こう側から「私」を辛うじて引き上げたのは、「ゆき」という「みさ」から授けられたその名前だった。

「君が名付けた私の名前は、私のために鳴る最も短い歌で、私たちの間に走る閃光で、私たちだけの言語だったから」。

「私たち」となることで、「君」の存在をもって「私」を回復することで、あたかも「私」は一筋の光を手にしたかにも見える。すべて#metoo#wetooからはじまる。

 しかしここに、この小説最大の不条理がある。

「私たち」をめぐるこの関係性は、「いつかまた出会い直せたら、ちゃんとそう呼び合いたい」、そんな「私」のイマジナリーな産物でしかないのである。実際のところは、中学時代に仲違いしたきり、一方的にメッセージしたところで、「美砂乃ちゃんの世界で私はとっくに死んでしまっているから、死ねとも消えろとも言われない」、そんな既読スルーの、関係とも言えない何かしかこの双方の間にはない。「美砂乃」と「雪那」が、たとえ「私」の中で改めて「みさ」と「ゆき」へと書き換えられたところで、たぶんこの事実が更新されることはない。

 破綻しているのではない。ほとんどの場合において、シスターフッドそのものが各人におけるイマジナリーでしかあり得ないというすぐれて近代的な「想像の共同体」性が、このくだりをもって描き切られているのである。とりわけ女性間における連帯なるものの一切(「私たち」)が薄っぺらなイマジナリーだとあざ笑っているつもりはない。あくまでこの小説において体現されているのが、イマジナリーな何かにすがることで辛うじて「闇」から希望を繋ぎ止める各々の「私」の痛々しさであるというに過ぎない。

「アレックスが人に触れたのはこれが最初で最後だった」、この主語を三次元平面で「私」に入れ替えてみても、おそらくはそのままに通用する。

 逆説的に、この図式は児童ポルノを搾取する側においても適用される。

 本当のところ、「世のお兄ちゃんたち」が消費するのは、「金井美砂乃」でもなければ「石田せつな」でもない、顔でもなく身体でもない、JSだ、JCだという##NAME##な記号に過ぎない。一定の年齢を過ぎてしまえば推しをBBAと切り捨てて、また新たな永遠の1x歳探しの旅に出る。願望に刃向かうことなど思い至らない、無知で無力なロリータの偶像以外の何かを彼らは決してシュートしない、いや、できない。「人に触れ」るという経験をおよそ持たない彼らには、自分勝手なイマジナリー以上の何かになど手出しできないからこそ、アイドルというかたちでラッピングされた対象を貪ることしかできない。

 小説におけるアレックスの歩みが、代入される##NAME##に応じてそのストーリー・ラインを変えることがないように、三次元の「私」も、「君」の欄に誰が来ようとも、何が変わることもない。すべての「君」は代入可能、代入不要、すべての「私」は代入可能、代入不要。「私」が「人に触れたのはこれが最初で最後だった」、そのただ一度の幻影を再解釈を経てはじめて立ち現れた「みさ」に投じることしかできない。

 そして仮に万が一「みさ」が応答してくれたところで、彼女が「私」の何を変えることもない、あのとき美砂乃を「みさ」と呼んでいたところで「私」が美砂乃の何を変えることもなかっただろうように、現に「ゆき」と呼んだ美砂乃が「私」の何を変えることもなかったように。

 眼差されることでイマジナリーに矮小化を余儀なくされた存在が己の等身大性を取り戻すために必要だったのは、奇しくもやはりイマジナリーな存在だった。他者に参照に値するものなど何ひとつないというこの厳然たるファクトから導出される、セルフ・リフレクションの必然を映し出したからこそ、本書は紛れもなく傑作となった。

 

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