Let It Go

 

 歴史家が、ウォルト・ディズニー・スタジオで活躍した初期の女性として取り上げるのは、たいてい仕上げ部門の従業員だ。仕上げ部門は女性主体の部署で、アニメーターが描いた絵を、撮影用の透明シートにインクで直に描き写し、色鮮やかに彩色するのが仕事だった。仕上げ係には芸術的なセンスが求められたが、ディズニー・スタジオで女性が担った役割は、それだけではなかった。私は2013年にインタビューを行うまで、これほど多くの、自分の大好きなディズニーの名作に、女性が責任ある立場で携わっていたことも、彼女たちの与えた影響がほとんど忘れ去られていることも、まったく知らなかった。

 もっと深く知りたいという思いから、ウォルト・ディズニーのあまたある伝記の中から1冊を手に取った。そして教わったばかりの名前――ビアンカ、グレイス、シルヴィア、レッタ、そしてメアリー――が出てこないか、次々とページをめくった。が、出てこなかった。別の伝記では、このうちふたりの女性の名が簡単に触れられていたが、その功績については何も書かれていなかった。それどころか、人を見くびったような紹介の仕方がされていた。スタジオで何十年もアートディレクターとして働いた著名なアーティストが、「その妻メアリー」と、まるで夫のついでのようにしか紹介されていなかった。彼女がスタジオに与えた影響の大きさを示唆する表現は何一つなかった。

 

 世にディズニフィケーションと称される作法がある。よく言えば全世代を対象に咀嚼しやすく、悪く言えば口当たりよく人畜無害に、プロトタイプにそもそも含まれていたはずのテーストを換骨奪胎していく、消費のためのデオドラント作用を指して今日では専ら語られる、あのことばである。

 1940年の『ピノキオ』は、その典型例といえるものだろう。この翻案を受けてカルロ・コッローディの原作に当たった誰しもが、そのギャップに驚かされたに違いない。放恣で乱暴な煩悩の塊、やがて改心していくプロセスが描かれるにせよ、この人形にはおよそかわいげというものが欠けているのである。

 スタジオがその中和剤としてとりわけクローズアップしたのが1匹のコオロギ、ジミニー・クリケットだった。こうした作業を通じて、原作とは似て非なる、「悪意を持って生まれたのではないが、世の中の運の悪い人々と同じように、たびたび悪に導かれるキャラクター」へと生まれ変わる。彫像なればこそ、「人を人たらしめるのは肉体ではなく、お互いを大切に思う気持ちなのだ」との説得力がいや増す。

 ところで、いかにもディズニフィケーションの具象が見て取れるこのスタジオ初期の仕事が、もしエンド・クレジットにその名が現れることすらない女性たちの寄与をもって成り立っていたとするならば。ジャニー喜多川フェティシズムに果てしなく通じて、ウォルト個人の志向性として説明されがちなこれらハンドリングが、もし無名の女性たちによってもたらされたものだとするならば――

 ディズニーという現象そのものの定義が根本から書き換えられねばなるまい。

 

 ディズニフィケーションという観点で言えば、1942年公開の『バンビ』は異色作とすら呼ばれるべきものなのかもしれない。母の命は人間の銃によって奪われる。愛するファリーンのために時に肉体を張ることすらも厭わない。主人公から溢れるのは、ひたすら生々しい血の匂い。

 この造形に強靭なフレームを与えたのも、やはりひとりの女性クリエイターだった。女人禁制のシナリオ会議に背を向けて、その女性がひとり向かったのは動物園だった。お目当てはシカの出産。今まさに肉眼で捉えているこの光景をスケッチブックに焼きつけていく。神々しきこの生命の胎動の一瞬一瞬に、しかしふと気づけば笑いが止まらない。生後「10分もしないうちに、赤ちゃん鹿は早くもその新しい脚を使おうと試みたが、よろよろと頼りなさげによろめき、再び倒れた。子鹿の必死さが可笑しかった。……生まれたての子鹿の愛らしさと、その最初の歩みの滑稽さとが相まって、自分の笑いのツボにはまった」。

 このくだりを読めば、誰しもが『バンビ』の記憶を呼び覚まされて胸高鳴る。しかし、彼女の名前は当然のように作品にクレジットをされてなどいない。もちろん、キャラクター・グッズから彼女に印税が渡るなんてことも起きなかった。

 この世におけるありとあらゆる会議など所詮、脳障害のサルのままごと。その情報の貧弱において、すべて声など文字の下位互換ですらあり得ない。群れるしか能のないイナゴどもが織りなす非生産性の極致としてのホモ・ソーシャル空間にレリゴーかまして、鉛筆一本で孤高のヒロインが密かに大仕事を果たしてみせる、それ自体がまるで映画のようなカタルシスを引き起こすシーンではある。そして実際、世界は常にそうして動く。

 しかし生前の彼女が現にその功績を報われた形跡はない。それどころか、バッシングですらなくパッシングな女性をめぐるこの惨状は、現代にまで引き継がれている。いかにも先進性をアピールしてはばからない映画産業ではあるが、それがガラスの天井でパッケージされた虚飾に過ぎないことは本書に引かれる各種の数字が教えてくれる。「全米の美術学校でアニメーションを学ぶ学生の60%は女性だが、ハリウッドのアニメーターのうち女性は23%しかいない。興行収入上位100作品の脚本家のうち女性は10%、監督は8%にすぎない。/……スクリーンに映る女性も少ない。アメリカ映画の興行収入上位100作品のうち、女性が主人公の作品は全体の24%にも満たない。2017年の長編アニメーション映画では、この割合はわずか4%と驚異的に低い。……第1に、作品に最低でも女性がふたり登場すること。第2に、女性同士が会話を交わすこと。第3に、その会話で男性以外のことが語られること。以上の単純な3条件を満たさない映画は驚くほど多い。1970年から2013年の間に製作されたハリウッド映画1794作品のうち、合格したのはわずか53%だった」。

 共感はある、共感しかない。赤の他人の多少の情動を誘ったところで、本書における発掘が果たしてタレンティドな彼女たちの何を慰めているのだろうか、この虚しき読後感、ライザ・マンディ『コード・ガールズ』に限りなく似る。『女工哀史』すら想起させずにいないその実人生に思いを致すとき、物語が痛快であればあるほどに、痛みを催さずにはいられない。

 

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