血と砂

 

 1945815日の終戦時、10代後半から20代前半だった大正10年代生まれの若者たちは、戦地となった南の島で、その周辺の海域で、または中国大陸で、果ては極寒のシベリアでその命を落とした。戦争末期には米軍が日本各地を爆撃したので、日本国内にいることさえ、命を保証しなかった。死ぬのだ、と自分の運命を見定めていた彼らは、突然訪れた終戦に戸惑いながらも、日本社会が復興から発展へと急速に歩みを早めた時代、その端緒から原動力となり、長く社会を牽引した。それが「戦中派」という世代だった。彼らの心中には、戦中の軍隊や軍学校で虐げられた日々への怒りや恨み、さらに、生き残ったことへの喜び、時にそれ以上の強い感情として、戦死した仲間への後ろめたさがあった。……

 大まかに言うと、私と年齢の近い30代、40代であれば、戦中派は祖父の世代に当たる。50代、60代であれば父親が戦中派となる。もう亡くなられた方も多いだろうが、記憶の中で、懐かしい面影を残すあの人も、戦中派であった。そのことを想像するだけで、彼らが戦争を通して何を見て、何を感じ、そして、どういう思いを持って戦後を生き抜いたのか、あるいは、戦後社会とどう対峙し、何を受け入れ、何を拒絶したのか、そのことに関心を持たずにはいられないのではないか。

 その答えは、岡本喜八、そして彼の残した作品の中にきっとある。

 

 19451月に陸軍工兵学校に入学した候補生岡本喜八郎は、4月末に早くも豊橋陸軍予備士官学校への移駐を命じられる。理由は「本土決戦への備え」だった。

 駅へと到着するや否や、まるで彼らを待ち受けていたかのようにB29の襲撃を受ける。爆風に吹き飛ばされて意識を失いかけた喜八郎が、「オノレヲ取リ戻シテ起キ上ガレバ、タダモウ泥絵具ノ地獄絵ノ惨状、殆ドガ即死ニ近カッタ」。約20名からなる「先遣隊ニ出テイタ生存者、僅カニ三名」。

プライベート・ライアン』を思わせる迫真の描写に息を呑む傍らで、筆者の脳裏にふと疑問がもたげる。資料を読みこむと「書かれた数字にばらつきがある」のだ。あるインタビューでは「30人のうち生き残ったのはたった3人でした」と証言している。裏を取らねば、新聞記者の血が騒ぐ。

 議論の詳細は本書に委ね、ひとまずの結論のみを抜き出せば、「喜八はくり返し、生存者が3人であると書いたが、亡くなったのが3人だった可能性もある。しかも、その可能性は低くないのだ。この奇妙な逆転を、どう捉えればよいのか」。

 

 ここからしばらくは、「逆転」をめぐる一読者の解釈に入る。

21才。その年、学校友達の半数を戦争で失った世代である」。

 しかし同学年にあっても、ひとつ決定的な分水嶺が走っていた。徴兵検査は満年齢に基づいて決せられた。1943年の検査対象者は、1922121日から19231130日に間に生まれた男子だった。従って、1924217日生まれの喜八郎は、少なからぬ同級生をひとまず見送り、1年遅れで検査を通過することとなった。「私より一寸先に入隊しただけ、たったそれだけの為にフィリッピン沖で死んで仕舞った、50人中25人の同級生たちは返らない」。わずか79日遅く生まれたことが、南方その他に送り込まれたか、あるいは敗戦を本土で迎えたか、を決定的に分けた。

 生き残ってしまった、という負い目を「戦中派」ならざる「戦中派」の喜八郎は引きずった。紙一重で生と死が覆っていても何らおかしくはなかった。一命を取り留めた側こそが本来ならば死んでいたはずだった、このショックが生者と死者をめぐる「逆転」に反映されたのかもしれない。

 

 もうひとつの「逆転」が喜八郎にはある。

「何のために死ぬのか……何のためなら死ねるのか」。

 その自問に対しての彼の答えは、「お七」だった。

 彼女は確かに実在こそした、ただし「声を聞いたことがないのだから、口を利いたことももちろんなかったのだろう」、彼はイマジナリーな存在に対してしか、「死神に追っかけられたころのわたくしにとっての祖国」を見出すことができなかった。

 虚実の境は皮膜にあらず、ここにおいて「逆転」する。

 この瞬間、岡本喜八郎から岡本喜八への胎動がはじまる。

 

「戦争が日常だった。町内会で起こった出来事を描くように、戦争を描いた」岡本喜八にとって映画とは、死せる同朋にスクリーン上で命を吹き込む、その試みだったのかもしれない。

 かつて『血と砂』に共感性羞恥にも似たむずがゆさを覚えたことがある。いかにも鈍臭い軍楽隊の少年たちが、三船を慕ってついてきた慰安婦相手に列をなして童貞を捨てる。スタイリッシュのかけらもない一見凡庸なその演出が、ところが妙にひっかかった。そして本書で氷解する。

 凡庸な少年たちを描いているのだから、凡庸であって当たり前なのである。そして彼らは凡庸な日々すらも送ることを許されぬまま、戦争をもってその命を絶たれた。

「死ぬのはやむを得ない。運命だ。だが、せめてその若さに相応しい明るさの中で、青春の最期を弔ってやりたい」。史実では決して鳴ることのなかっただろう敵性音楽「聖者の行進」に泣きじゃくる名古屋章には、いや岡本喜八には「そんな素朴な感情が出ている。かけがえのない青春の終わりが、人生の終わりと重なった哀しい世代だった」。だから彼は「人間に対して絶望的な、皮肉な眼を持てない」(五木寛之)。生き残ってしまった「戦中派」の喜八が描く徹頭徹尾の凡庸さは、転じてそれ自体が既に喪失済みのものとして立ち現れる。死者の幻影を刻み続けたその作品は、だからこそ「おかしゅうて、やがて悲しい」。

 

江分利満氏の優雅な生活』の中で、小林桂樹が演説を打つ。

 ずるい奴、スマートな奴、スマート・ガイ、抜け目のない奴、美しい言葉で若者を誘惑することで金を儲けてた奴、それで生活していた奴、すばしこい奴、ハートのない奴、ハートということがわからない奴。これは許さないよ。みんなが許しても俺は許さないよ。心の中で許さないよ。

 いかにもevery manの名に似つかわしい、「素朴な感情」の発露である。しかし、死者はこの凡庸さを表明することすらできなかった。死者はあるいは騙されていることにすら気づけなかった。「許さない」というその心を持つことすらできなかった。

 この義憤の告発は、生ける者にしかできない。死者と生者を交錯させる媒介者、映画作家岡本喜八は、「心の中で許さないよ」とのセリフを脚本に付け加えたその刹那、岡本喜八郎を回復させる。

「なんのために死ぬのか」という問いはつまり、なんのために生きるのか、という問いへと変換される。「戦中派」は死者のためにしか生きることができない。死ねなかった男は死者の声をこだまさせることで自らに魂を吹き込む。

 死ぬのに美しいも醜いもありますか。ただ無。すべてが無くなる。それだけですよ。だから私は生きてる間、何かに燃えていたい。それだけだ。

赤毛

 

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