我が逃走

 

 第二次世界大戦のさなかドイツでは、幾多の兵士が軍法違反で断罪された。そのほとんどは脱走した一般庶民の兵士……である。脱走兵ということばには古来、負のイメージがつきまとう。実際、彼らは生きのび戦後になっても社会から裏切り者、犯罪者とみなされて除け者となり、政府による補償もなく年金も支給されなかった。

 こうした状態は長期間に及び、元脱走兵の存在はタブー視されつづけた。ナチス(=国家社会主義ドイツ労働者党)の時代に断罪された彼らが復権したのは今世紀に入って2002年のことであり、最終的に軍法鍵の判決すべてが破棄されたのは2009年、じつに戦後64年も経ってのことである。

 なぜこれほど長く放置されたのか。この問いは、ナチスの過去を成功裏に清算したとされるドイツが、本当は過去とどのように向きあってきたかを明らかにすることと結びついている。本書では、この問題を「最後の脱走兵」として生き抜いたルードヴィヒ・バウマン(19211213~201875日)に重点を置いて、描いてみよう。

 

 テキスト開始早々にとある衝撃の数字が明らかにされる。

 それは大戦中に軍法裁判の判決を経て執行された処刑者の数。アメリカで146件(うち殺人・強姦・強姦殺人145件)、イギリスで40件(うち殺人36件、武器をもった反抗3件)だというのに、ドイツにおいては陸軍だけで19600件に上る。脱走兵についてはドイツ国防軍トータルで30万人、捕まった13万人のうち死刑判決を受けたのは35000人、刑務所、収容所送りになった10万人ほどのうち、生き延びることができたのはわずか4000人。他方でアメリカでは、脱走兵は2万人余りを数え、うち死刑判決が162人に下ったものの、実際に行われたのは1件のみだった、という。

 文字通り何もかもが桁違いだった。ナチス政権下の人倫の破綻に襲われたのは、何もユダヤ人や敵国に限られなかった、彼らは同時に内なる存在に向けて排除の狂気をふるっていた。

 

 裏切り者にはノー・トレランスをもって臨む、この方針には先の大戦をめぐるとあるトラウマが横たわっていた。キールの軍港ではじまった11月革命が帝政の終焉をもたらした、この「背後からの一突き」の悪夢の再現へのおそれが、政権幹部に共有されていた。

 そのひとつの反映が「国防力破壊」罪だった。クー・デ・タか何かを連想させる、いかにも大仰な響きを帯びてはいるが、その対象といえば例えば、ヒトラー暗殺未遂の報を受けて仮に成功していたら「戦争が早く終わって平和になったのに」とつぶやいた、たかがこれだけの軽口である。これしきの一言が密告の対象となり、「国防力破壊」と謗られ、そうして死刑判決が導かれた(ちなみにこの女性自体には後に減刑が認められはしたが、それでも懲役10年である)。

 排除の他に何ひとつとして求心力をもたらすことのできない彼らが、排除のための排除を志向する制御不能の自動機械へと変貌するのは理の必然だった。論理なき彼らはその限りにおいてはすぐれて論理的だった。

 いつの世も「裏切り者」は生まれるのではなく、作られる。

 

 これほどまでに自国を毀損して回ったナチズムから逃走する、加害の主体としてのコミットメントを拒絶する、狂気ならざる良心の眼差しから鑑みれば、それはむしろ極めて愛国的な行為として讃えられて然るべきものはずだった。

 しかし戦後のドイツ社会においてすら、非国民は非国民のままだった、「裏切り者」は「裏切り者」のままだった。軍法がいかに正当性を欠いていようとも法は法として、その一連の判決は堅持され続けた。「前科者」の烙印がつきまとう彼らには就職さえもままならず、被害補償を求めようとも梨のつぶて。軍人としての資格も剥奪されているがためにしばしば年金等を申請することすらできない、他方で協力者たちはきっちりと受給して天寿を全うして逝った。

 

 わけても「最後の脱走兵」の肖像に絶句を誘われる。死刑判決、のち恩赦により減刑、しかしそれは「友軍の盾」として投入されるための準備にすぎなかった。彼は独ソ戦の前線、ウクライナへと投入され、そこで九死に一生終戦を迎える。194512月に郷里に帰り着いた彼を待っていたのは絶望だった。それまで彼は夢に見ていた、「独裁制に反抗して脱走した」この行為は転換したレジーム化においては必ずや称賛の的となるに違いない、と。ところが闇市で何気なくそのことを口にするや否や、袋叩きにあった。保護を求めて駆け込んだ警察では、さらに制裁を加えられた。家に戻れば窓ガラスが割られていた。自己肯定の翼をもがれた彼は、PTSDも相まってアルコールに逃げ道を求めた。病める父親にさらされて子どもたちも次から次へと病んでいく。果ては9歳の末っ子が強迫性障害を発症するに至り、そこでようやく目を覚ます。

 ただし彼には家族の他にもうひとつの支えがあった。それは亡き同朋がいまわの際に彼にこう言い残したということば。「二度と戦争をしてはいけない!」

 

 どこまで行っても「裏切り者」は「裏切り者」、何はともあれ共に手を取り戦うべき兵士たちを見捨てて逃げ出した「卑怯者」が、たとえ戦争が終ろうとも、その道徳律を理由に糾弾され続けるのは当然のことではないか、と。たとえどれほど理不尽であろうとも、上官からの命令にお国のために我が身を捧げた者たちが称賛を受けるのは当然ではないか、と。

 ナチスへのシンパシーとは別の仕方で、こうした言説は戦後のドイツを支配し続けた。

 呪縛を解くに必要だったのは、世代交代と研究の進展だった。

 現代における「戦時反逆者」の通説を形成する決定打となったテキストが導いた結論は、以下のようなものだった。

「戦時反逆というと“軍の機密の背信的な漏洩”を連想させるが、ほとんどの事例はそうした行動ではなく、政治的な動機あるいは道徳的倫理的な動機による行動であった。一面的な記述のように思えるナチス軍司令官の文書からでさえ、それが読みとれる。客観的に見て、彼ら戦時反逆者は元々『多数の兵士たちの生命を危険にさらすようなこと』を考えてはおらず、記録の文書からもそうした行為はうかがうことができなかった」。

 ある者はユダヤ人を救出すべくトラックに匿い、そして検問で捕らえられた。当然のように死刑判決が下り、即日執行された。彼には逃げるチャンスはあったという、それなのに、甘んじて自身の首を差し出した。判決の正当性を主張すべく利己的な悪魔をでっち上げんとするはずの文書からすらも、「戦時反逆者」たちのそうした性質を検知することはできなかった。

「裏切り者」を糾弾する者たちは、生涯決して彼の利他的な動機を理解しない。「違法行為に走った彼らの大半は、今次の戦争を憎み、上官の勝手な行動や命令に抗して、捕虜に人間的に接し、迫害されたユダヤ人を助けようとした。さらには脱走して、パルチザン側に投降するか行動をともにした」。

 言い換えれば、他のほぼすべての者たちは、「戦争を憎み」もしなければ、「捕虜に人間的に接し」もしなければ、「ユダヤ人を助けようと」もしなかった。

 それがマジョリティである、今も昔も変わることなく。

 

 正道を歩めば脱走兵と見なされる。

 ルートを規定するのは誰か。

 軍法会議ではない、マジョリティである。

 

 ナチスの凶行を未然に防ぐためにできたことがあったとすれば、それは『マイノリティ・リポート』よろしく、A.ヒトラーJ.ゲッペルスを間引くことではなく、彼らを0.1パーセント支持する可能性をもった量産型クラスターを一匹残らず殲滅することである。仮にヒトラーが消えていたところで、別の誰かがタイム・スケジュールをほとんど変えることなく歴史に名を刻んでいた、ただそれだけのこと。この世のすべての存在は入替可能、入替不要、代表者とは文字通り代わって表に出る者にすぎない、大衆の意に沿う代表者が現れるまで、ひたすらのガラガラポンが繰り返されるにすぎない。暴力に屈したわけでも何でもない、いついかなる時代においても彼らは常に己にふさわしい似姿を自ら能動的に選び取っている、それがグロテスクであればあるほどに。

 

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