デッドレコニング

 

 ある本の小さな記述によって、「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人のことを知りました。

 その人は、陸軍の第一回の特攻隊のパイロットでした。

 海軍の第一回の特攻隊は『神風特別攻撃隊』と名付けられ、零戦250キロ爆弾を装備して体当たりしました。陸軍の第一回特攻隊『万朶隊』は、九九式双発軽爆撃機800キロの爆弾をくくりつけて、体当たりするものでした。

 それでも、9回出撃して、体当たりしろという上官の命令に抗い、爆弾を落として、9回生きて帰ってきた人がいました。名前は佐々木友次。その時、彼は21歳の若者でした。

 いったい、どうしてそんなことが可能だったのか。生きて帰ってきた時、上官や仲間達を含めた周りの反応はどうだったのか。

 知りたいと思いました。けれど、それはすでに遠い過去、歴史の遠景になっているだろうとあきらめていました。ですが、佐々木さんは生きていました。92歳で札幌の病院に入院していましたが、意識も記憶も明瞭でした。

 僕は5回、直接お会いし、いろんな話を伺いました。……

 佐々木友次さんという存在を歴史の闇に埋もれさせてはいけない。佐々木友次さんが何と戦い、何に苦しみ、何を拒否し、何を選んだか。そして、どうやって生き延びたか。生き延びて何を思ったか。一人でも多くの日本人に知ってほしい。

 それだけを思って、この本を書きました。

 

「卵をコンクリートに叩きつけるようなもの」。

 そもそもからして破綻したプランニングだった。

 体当たりという作戦とも言い難いその作戦が構想されたのは、訓練時間も確保されない未熟なパイロットたちによる急降下爆撃の成功が期待できない、という苦肉の策に過ぎなかった。もっとも、相手の大艦隊深くにたった数機の戦闘機のアシストで潜り込んで砲撃をかわした上で、空母などの主要艦船の中枢に的確にダメージを与えようなどとは、荒唐無稽にも程があった。もとより甲板を貫けるような爆弾を当時の陸軍は保有していないと来ている。少しでも深く食い込むようにと装着された鍵爪状の突起は、単にフライトの妨げという以上の何の機能も付与しなかった。仮にもしこの無理に無理を重ねた条件下においてなおオペレーションを遂行できるとするほどの有能なパイロットがいるのならば、一度限りの特攻で機体もろとも玉砕させるのではなく通常の爆撃に出動させた方が、いかなる点に鑑みても戦力としての効率性を認められたことだろう。

 しかしそのような見解は、けんもほろろに退けられた。

「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」。

 それが陸軍の公式見解だった。

 

 そうして佐々木友次は、陸軍特攻隊の第一陣として送り出された。

 昭和十九年十一月のレイテの洋上、大本営発表を受けて当時の新聞は、佐々木の機体が「戦艦に向かって矢の如く体当たりを敢行して撃墜」させた、とその成果を華々しく報じた。

 ところが「神鷲」は天に召されてなどいなかった。積み込んだ爆弾を戦艦ではなく輸送用の小型揚陸船目がけて打ち込んだ、命中したかどうかさえも定かではなかった――米軍の記録によれば「損傷」を受けたとある――、いずれにせよ、そうして佐々木は生きて基地へと舞い戻った。

 しかし、佐々木のミッションはここで終わらなかった。

 彼の成果とそして死が大本営より発表されたということは、天皇へとその報告が届けられたことを指す。上意下達の組織機構において、畏れ多くも「陸海軍ヲ総帥ス」存在に対して虚偽の報告をしたなどということは万が一にもあってはならない。

 つまりこの平仄を合わせるためには、事後的であろうとも、佐々木の死を厳然たるファクトにしてしまえばいい、ましてやそこに戦果が伴えば言うことはない。

 かくして彼には計9度もの出撃命令が下された。この「処刑飛行」の目的は、もはや体当たりの成功ですらなく、佐々木の名誉の戦死だった。この間に実は二度目の大本営発表が下り、そして郷里では再びの盛大な葬儀が催され英雄として送られた。しかしその思惑は遂げられることなく、間もなく陸軍はレイテからの「名誉の撤退」を余儀なくされる。そのとき、彼はマラリアにより死線を這っていた。辛うじて10度目の発進を免れた。

 もっとも公的書類上は既に戦死したことになっている佐々木は、台湾へ転身する飛行機に搭乗することさえも許可されなかった。もぬけの殻のフィリピンに取り残されて、大岡昇平の地獄絵図そのままの山間をさまよい歩き、そうして命からがら終戦を迎えた。

 

 承前の通り、優れた育成メソッドが構築されていたわけでもない。その中で、いったい何が最年少の佐々木に万朶隊へと抜擢されるほどのスキルを授けることができたのだろうか。

 ひとつには飛行機への憧れがあった。彼は言う、「なにせ、空へ浮かんでれば何でもいいんでね……だからひまさえあれば、一機でも、飛行場の片隅で、訓練やってたんですよね」。誰に強いられたわけでもない、使命感に突き動かされてでもない、「なんせ私は飛行機に乗るのが好きで好きで、どうにもならん」、そのときめきにどうしようもなく駆り立てられた。「わくわくしますよね。いや、わくわくなんていうもんじゃない」、その高鳴りが彼に他と隔たった傑出した技量を培わしめた。

 そして佐々木を支えたもうひとつは「寿命」だった。日露戦争に従軍し、金鵄勲章を授かった父から、彼は度々「人間そんな容易に死ぬもんじゃない」と言い含められて育った。父も帰った、ならば自分だって帰れるはず、「先祖の霊に支えられているっていう一言です」、そんな確信が背中を後押しした。

 

 ところが、ようやく郷里に帰り着いた幻の「軍神」は、父から思わぬことばを浴びせられる。

「お前らがだらしないから、いくさに負けたのだ。俺達の時とはえらい違いだ」。

 そんな声を向けられたのは、この一度限りではなかった。

 帰国後間もなく通りかかった闇市でのこと、「行進を続けていると、ひとかたまりの男女が叫び始めた。……やがて、彼ら彼女らは、復員軍人の列に向かって石を投げ始めた。佐々木にはののしる声がはっきりと聞こえた。

『日本が負けたのは、貴様らのせいだぞ!』

『いくさに負けて、よくも帰ってきたな。恥知らず!』

『捕虜になるなら、なぜ死なないのか!』」

 戦時中にも、全く同じ声を聴いた。

「今度は必ず死んでもらう」、「今度帰ったら、承知せんぞ!」と送り出され、たまに多少の戦果を収め、そしてあるときには機体の整備不良により飛び立つことすらできず、あるいは不時着を強いられて、そうして生きて戻った佐々木を待っていたのは、「臆病者」や「恥さらし」という上官からの罵詈雑言だった。

 司令部の思いは、すなわち日本国民の総意だった。一億総懺悔といういかにも耳障りのよいこの響きが意味したものは、曖昧にみんなのせいだと謳うことで、つまりは誰のせいでもないと開き直ることだった。一億総懺悔は単に皇室を含む上層部への免責を認めたにとどまらない、国民一般をまんまとこのフレーズや受忍論へと逃げ込むことに成功させた。とにかく自分は悪くない、表向きの恭順の反転として、一切の憎しみは佐々木ら復員兵へと注がれた。勝てば官軍、負ければ賊軍、苦渋の何もかもは単に戦勝国史観の結果論であって、帝国日本敗戦の責任はすべて前線の無能に起因する。技術力が足りないから負けたのではない、資源に乏しいから負けたのではない、戦術戦略が拙いから負けたのではない、国体がクズだから負けたのではない、国民がクズだから負けたのではない、ひとえに兵士たちに精神が足りなかったから負けた、戦後においてすら彼らはそう信じ続けた、彼らは自らの精神の崇高を信じ続けた、日本というカルト宗教を信じ続けた。

「精神で撃ち落とすんだ」。

 東條英機のその言は、紛れもなく、すべて日本国民のエコーだった、今日まで毫として揺らぐことのない。

 

 

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