侏儒の言葉

 

 1923年(大正12年)の関東大震災は、10万人以上の死者を出した大惨事だったが、これにさらに凄惨な相を与えたのが、「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を投げている」という噂を真に受けた人々が刃物や竹ヤリなどで行った朝鮮人(さらには中国人)の無差別虐殺だった。行政や軍もこれらのデマを事実と思い込み、率先して広め、ときには殺害を実行した。東京はそのとき、かつてのユーゴスラビアルワンダのようなジェノサイドの街だった。

 普通の人々が、民族差別(レイシズム)に由来する流言につき動かされて、虐殺に手をそめた過去を持つ都市。いつ再び大地震が来てもおかしくない都市。そこで今、かつてと同様に「朝鮮人を皆殺しにしろ」という叫びがまかり通っている。これはあまりにもまずい事態ではないか。……

 関東大震災は過去の話ではない。今に直結し、未来に続いている。焦りのような思いから、私は路上でともに行動した仲間たちに呼びかけて、90年前に虐殺があった東京各地を訪ねて写真を撮り、そこで起きたことを当時の証言や記録をもとに伝えるブログを開設することにした。……

 本書は、それをもとに加筆し、まとめたものだが、この歴史的大事件の全体像を「解説」するものではない。……本書の目的は、90年前の東京の路上でさまざまな人々が経験した現実を「感じる」ことである。

 

 192392日のことだった。甲州街道にて17人の朝鮮人を乗せた貨物自動車を自警団が強襲する。丸腰の彼らに凶器が振り降ろされ、1月半後の第一報記事が伝えるところでは、辛うじて逃げ延びた2人を除いて、1人が死亡、14人が重軽傷を負ったという。

 もっともそれ以降の報道は乏しく、筆者はこの事件における最終的な死者数を読み切れずにいた。そんなある日、郷土史の資料からとある記述に出会う。この地域の鎮守であった烏山神社には13本の椎の木がそびえており、それらは犠牲者の追悼のために植えられたという。

 最終的に13名で確定したかと思いきや、この話にはとんだどんでん返しが待っていた。被害者の数それ自体は、1名で間違いはないのだという。それでは残りの12本が意味するものは?

 実は、その数は加害者として起訴された村人たちを意味していた。凶行に加担した数十人のうち、いかなる基準によるものか刑事裁判にかけられた彼らひとりひとりのために、この12本は捧げられた。「千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸でなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手を差し伸べている。千歳村地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体である。……そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した」。

 同様の事象は、あの福田村事件においても観察された。おそらくは日本中の至るところで、過ちとすら認知することなく、それどころか熱烈な歓迎をもって、「郷土愛が強く美しく優さしい人々」はすべてを水に流した。

 

 埼玉の寄居町でも、壮年の男性がその命を奪われた。秩父の奥深く、震災の被害も極めて軽微であったこの街で標的とされたのは、飴売りの行商で誰からも親しまれた、名物の朝鮮人だった。

 寄居に暮らす者はみな、彼が万が一にも蛮行を働く「不逞鮮人」であろうはずがないことなど、十二分に承知していた。誰ひとり手出しをしようなどとは夢にも思わなかった。

 しかし、内務省の呼びかけで結成された隣村の自警団にとって、彼は絶好の生贄だった。朝鮮人であるというただそれだけの理由で、身の安全のために匿われていた警察署の留置所内で、その自警団のリンチの末に絶命した。

 遺体は間もなく町民の手によって引き取られ、荼毘に付された。「虐殺犠牲者で名前と出身地が分かり、さらに戒名がついているのは珍しいという」。言い換えれば、他のほぼすべての死者たちは、朝鮮人であるという以上の固有性を認められぬまま、朝鮮人であるというただそれだけの理由で闇へと葬られていった。

 

 それどころか100年が経過した今なお、現実には死者としてすら認定されていない犠牲者が山と存在している。

 その中国人留学生、王希天が送られた先は習志野の収容所だった。市中でジェノサイドが猛威を振るう中、ひとまずの安全基地として彼はその処遇を受け入れた。そんな彼がある日、失踪する。その噂を聞きつけた政府の調査に軍は、あくまで釈放しただけであって、その後のことは一切与り知らないと返答した。

 この「行方不明」の真相が白日の下にさらされるには、およそ70年もの時を要した。

 軍と警察と、そしておそらくはブローカーの共犯によって彼は殺害されていた。収容所に勤務していた当時の一等兵がことの経緯をしたためた日記を公開し、次いで実行犯であった当時の中尉が聞き取りに応じたことで、はじめて全体像が明かされた。

 

 時の司法省のカウントした233名にまさかこの死は組み入れられているはずがない。今日に至るまで、その死者の数についてもはや「正確なことはわからない」。というのも、「第一に当時の政府が虐殺の全貌を調査しようとせず、むしろ『埋葬したるものは速に火葬とすること/遺骨は内鮮人判明せざる様処置すること/起訴せられたる事件にして鮮人に被害あるものは速に其の遺骨を不明の程度に始末すること』を打ち出すなど、事件の隠蔽と矮小化、ごまかしに努めたからである」。

 そして、1世紀前のこの国是は、2014年刊のテキストの警句すら超えて、節目を迎えていっそうの強化が図られた。官房長官東京都知事も、誰しもが平然と白を切って恥じることを知らない。法治国家たる所以としてのまともな記録文書すら残せない行政による恥ずべきこの事態が、彼ら「郷土愛が強く美しく優さしい人々」のよりどころとなった。かたや資料の不十分を錦の御旗に虐殺の事実は否定しておきながら、「不逞鮮人」による放火等の何らの資料にも由来しない虚妄については議論の余地がある、といったお得意の言い回しをもって、改めて「善良なる市民」と「勇敢なる自警団」は事実上のお墨付きを与えられた。

「もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じてゐるらしい顔つきを装はねばならぬ」、芥川のこの皮肉を100年越しに繰り返すことになろうとは。

 

 この卑劣と野蛮こそが人間の本性なのかもしれない、そんな諦念につい引きずられそうになるほどに、私たちは全く同じ差別と陰謀のエコーを今なお世界中から聴かされる。ウクライナ人がウクライナ人というだけで殺される、パレスチナの民がパレスチナの民というだけで殺される、女性が女性というだけで殺される、有色人種が有色人種というだけで殺される。各人が有する属性がヘイトのことばによってたちまちに上塗りされて捨象される、その現象には逆説的に、ペンは剣よりも強しなる格言の真実味を見ずにはいられない、すなわち、「郷土愛が強く美しく優さしい人々」からいかなる自制も喪失させていともたやすく剣を抜かせてしまう、ペンなるものの凶暴極まるその性質の限りにおいて。

 このことは同時に教えるだろう、ペンの暴発は剣によっては終わらない、ペンにはペンをもって抗うよりほかにないのだ、と。「我我は互に憐まなければならぬ」、そんなことばを積み上げ続けるしかないのだ、と。

 

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com

shutendaru.hatenablog.com