悪の凡庸さ

 

 2人は理想に燃えていた。27歳のハンスは〔ウェステルボルク通過〕収容所で評判の医師。フリーデルはまだ18歳。出会いのきっかけは、ハンスが担当する病棟でフリーデルが看護婦として働いていたことだ。……

 1943913日、月曜日の夜にユダヤ人評議会の人間がハンスとフリーデルを訪ねてきて告げた。移送の準備をしてください。……

 出発時刻の10時半、貨車の扉には外から錠が下ろされた。最後の別れの言葉を交わし、貨車の小窓から最後に一目、外の様子を見る。こうして、正確な行き先は教えられないまま、ポーランドへの移送が始まった。……

 旅の途中で余興が始まる。まず最初の停車駅でSSの兵士が入ってきて言った。たばこをよこせ。しばらくあとには時計を巻き上げにきた。その次は万年筆、それから宝飾品。……

 食事は与えられなかった(3日間のあいだ、1度も)。出発する時に積み込まれた食べ物はいつの間にか消えていた。もっともそんなことはまったく気にならなかった。自分で持ち込んだ分がまだたっぷりあったからだ。時々、トイレの代わりのバケツを空にするために、何人かが外に出ることを許された。そこで爆撃の爪痕を目にするとうれしくなったが、ほかは特にこれといったこともなく、旅は続いた。3日目に行き先がわかる。アウシュヴィッツ。それはただの単語であって、よくも悪くも意味をもった言葉ではなかった。

 その晩、彼らはアウシュヴィッツの降車場に到着した。

 

 医療従事者である夫婦は否応なしにいずれ知らされる羽目に遭う、婦人たちを監禁する建物の中でいったいいかなる実験が日々繰り返されているかを。つまりは、「大規模な不妊化・断種。……ユダヤ人女性は金のかからない実験動物にすぎない」。

 とある女性は、「お腹とお尻に板をあてて、超短波の電波をかけられ」た。そうして卵巣をあぶられた後、火傷が一通り収まるのを待って、「開腹手術をして、臓器、特に卵巣の状態を確認」された。また、とあるドクターは「2時間15分で9人の手術」を施したが、その「途中で器具の消毒は一度もしなかった」。400人を対象とした「ちょっと粘膜を採るだけ」の実験も、まさかそんなサンプリングだけのはずもなく、「結局みんな縫っている」。

 もっとも彼らが目撃したものは、「頭は丸刈りで、裸足。体には麻袋を巻いて、縄で縛ってあるだけ」の「動物、性別のない生き物」に加えられた「実験」の、ほんの氷山の一角にすぎないのだろう、戦後になって究明された氷山の一角の、さらにそのほんの一角。

 

 いや、むしろ彼らはその肉眼にアウシュヴィッツの本質をきちんと捉えていたのかもしれない。

「全部気まぐれ、思いついたことをやっているだけだ」。

 一連の「実験」には「論理も秩序もあったもんじゃない」。ナチスお抱えの研究所がメソッドを事細かに作成し、指定し、末端からそのサンプルを吸い上げる、そんな優生思想の上意下達などひとつとして観察できやしなかった。一方で不妊のためにあらん限りの手を尽くしながら、一方では日々「動物」たちをレイプする、しばしば同じ人物によって行われた生殖をめぐるこの倒錯し切った行動が、まさか何かしらの指示書きによって一斉に施されていたはずがない。

 あたかもスタンフォード監獄実験を先取りするように、誰しもが好き勝手にやっていた。そしてだからこそ、封建制度のごときフリーパスの快楽が担保されるからこそ、彼らはナチスを支持し続けた。「自らの内に目覚めたサディスティックな性癖を満足させていた。また、それができたからこそ、彼らは最後の最後までヒトラーの従順な信奉者であり続けたのだった」。筆者の慧眼は見事に権力作用の真を衝く。そこにいかなる固有名詞を代入しようが同じこと、ファシズムの中心など実のところは誰も支持してなどいない、彼らは各々が自分自身を支持しているに過ぎない。彼らにはただ言い知れぬ怒りと、怒りと、そして怒りだけがあって、クズで、クズで、クズで、どうしようもなくクズな自分が肯定されているという確信の限りにおいてのみ、空虚な中心を担ぎ出す。自らの見たいものだけを見る、その投影を可能にすべくセンターに求められる要件はただひとつ、ひたすらに空虚であること。

 歴史のif、もし幼き日のアドルフ少年が川に溺れたきり、そのまま助け出されなかったなら――別段何も変わりやしない、今日のテキストの空欄に別の誰かの名前と顔が刻まれていたに過ぎない。

 

 その男、アドルフ・アイヒマンエルサレムの法廷に立たされてすら、自らに科された「人道に対する罪」の意味を理解できなかった。アウシュヴィッツをはじめとした収容所にて「ユダヤ人問題の最終解決」を指令した彼にとって自らが下したはずの一切の決定すらも、あくまで上部からのミッションに応えてその職務を全うしたまで。与えられた課題を処理したに過ぎない、官僚機構的なこの一連の手続きの遂行のいずこに自らが問われるべき責任があるのか、と彼はむしろ訊き返さずにはいられなかった。

 ハンナ・アレントは、この現象を指して「悪の凡庸さ」と名づけた。

 しかし本書に触れるとき、ここに新たな読み替えの道が開かれる。

 アイヒマンは上層部に従ったわけではない、それどころか、末端の彼らの意に沿う軽い神輿と担がれていたにすぎない。「悪の凡庸さ」はトップダウンに由来しない、それどころか、ボトムの「サディスティックな性癖」の自発性にこそ起因している。

 狐に威を貸す虎などそもそもいない、すべて虎など狐によるでっち上げに過ぎない。彼らは扇動されたわけではない、脅迫されたわけでもない、彼らはヒトラーという恰好の記号を発見したに過ぎない。彼らを納得せしめる隠れ蓑ガラガラポンの一等賞に、たまたまアドルフ・ヒトラーの名が記されていたに過ぎない。クズのクズによるクズのための代表たるその資格にクズという以上の要件などいらない。

 

 なぜ彼は生きているのか。なぜ生きることを許されたのか。命を落とした何百万人の人々よりも、ハンスの何が優れていたというのだろう。

 彼らと運命をともにしなかったという事実は、底知れない不幸に感じられた。〈ノ・パサラン〉で話を聞いたあの娘の言葉を思い出す。「この話をするために、この話をみんなに知らせて、本当にあったことだと説得するために、生きていよう……」

 

 

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