生前の大田は、「反戦平和」を希求する「沖縄の心」について論じ、その体現者をもって自他ともに任じていた。また米軍基地問題をめぐって日米両政府に抵抗する沖縄のリーダーとして脚光を浴びた。その一方で大田は同時代、県内で各方面から批判されている。
沖縄現代史研究者で、「沖縄闘争の伴走者」と称された新崎盛暉(1936~2018)は、……政府との対立を経て最終的に米軍用地使用の公告・縦覧代行を決断した大田を、基地問題の根本的解決を目指すのではなく政府と妥協したと厳しく批判した。
また琉球王国史研究者で2013年から14年には仲井眞弘多県政の副知事となった高良倉吉(1947~)は、大田が知事として沖縄基地問題を日本全国に提起したことを評価しつつも、現実的な問題解決策を示すことができなかったと評した。……
なぜ大田には一方で慎重で妥協的、他方で感情的で批判ばかりという対照的な評価があるのか。しかしこうした対照的な評価こそ、大田という人物の、そして大田が生きた沖縄現代史の複雑さを示している。
本書に刻まれる大田昌秀の原風景の数々が、いかにも彼のその後の歩みを既に決定づけていたことを読み進むほどに知らされる。
米軍の沖縄上陸とほぼ時を同じくして学徒動員されるも、惨敗により隊には間もなく解散命令が下り、彼は孤独に野に放たれる。「その後大田は、死人から地下足袋を抜き取り不自由な足を引きずりながら米兵の残飯が残る摩文仁の丘の頂上に登って生き延びた。もっとも摩文仁の丘では、食料を求める日本兵に対する米兵による殺戮や食料をめぐる日本兵どうしの殺し合いもあり、戦場における人間の醜さを大田は実感した」。彼はつくづく思い知る、「それまでの自らの人生は国家による戦争体制の一部分となるためのものだったこと」を。
その国家観、人生観を覆す衝撃的な出会いを果たす。占領統治下の沖縄で目にした日本国憲法、「特に感動したのは、戦争放棄を記した第9条と、地方自治を謳った第8条の条文だった」。
米軍政府が提供する留学制度により東京の土を踏んだ大田は、「『米兵が主人公』の沖縄と異なり、街中で米兵の数が少なく目立たない一方で日本人が堂々としていることに気が付いた」。
この「日留」に次いで、いよいよ「米留」でアメリカへと渡った大田は、「民主主義とはいかなるものであるかを実体験」する。ある日、学生新聞の記載が講義で激論を呼ぶ。「白人が犯罪をしたときは『白人』と特記しないが、黒人の場合は必ず『黒人』と明記していた。これに対し大田は、……その当否を2週間ほど議論した。その結果、担当教授の賛同を得て新聞に申し入れその習慣を廃止させる」。大田自身も当事者として差別に直面した。
ここにふたつのアメリカが現れる。つまり、容赦なき差別を温存し行使する主体としてのアメリカ。ただし、民主主義的な対話を通じて、現状の差別を改善しようとする主体としてのアメリカ。傍らには、マイノリティ相手でも話せば分かるアメリカがあり、そして同時に、会話の通じない無慈悲なアメリカがある。
同様の構図は、大田の抱く日本像においても反復される。一方には、本土を守るための捨て石とせんとした時代そのままの構造的差別を所与の前提化した日本があり、ただし、その国には日本国憲法がある。
ふたつのアメリカ、ふたつの日本に翻弄される。大田昌秀を形づくっただろうこれらの原体験は、そっくりそのまま沖縄の戦中戦後史と軌を一にする。
その象徴事例が、軍用地強制使用に関する公告・縦覧の代行問題だった。「1982年以降、……地主が軍用地の契約を拒否した場合、市町村長、そして知事が代理署名を行うことで土地を強制使用することを可能にしていた」。知事就任から間もなくの1991年、経済振興策というアメとムチを前に、大田は苦渋のサインをする。
そして1995年、再度の契約更新を前に二期目の大田は葛藤する。ここで署名すれば、基地負担軽減はますます遠のく。ただし、「理念と現実の調和」に従って何かしらの譲歩を政府から引き出すことをトレードに今回もサインをするというのが大方の見立てだった。ところがそのタイミングを間近に控えて事件が起きる。女子小学生が米兵によってレイプされたのである。そして彼は、沖縄世論の後押しを受けて、代理署名の拒否を宣言する。
もっとも史実は知っての通りである。「沖縄の痛みを国民全体で分かち合う」という時の宰相・橋本龍太郎の談話を受けて、最終的に代理署名を呑む。
そして間もなく、双方の同床異夢は決定的に露呈する。普天間返還という「最重要の課題」を引っ提げて、一定の成果は認めてもらえるだろうと官邸は踏んでいた。対して沖縄にしてみれば、辺野古というアイディアはどこまで行っても県内移設に過ぎない、むしろそれは恒常化すら示唆している。両者が想定するゴール・ラインは、そもそものはじめから食い違っていた。
日米同盟と平和主義、その狭間に投げ込まれた大田には、空前の不況にあって妥協の挙げ句に何も引き出せなかった知事として、選挙を通じて失格の烙印が押されることとなる。
ちなみに、その落選キャンペーンを率いたのが誰あろう、時の沖縄自民党のドン、翁長雄志だった。
「もう疲れたよ」。
とある会談の後、大田がふと側近に漏らしたという。
たかだか一冊をめくったにすぎない読者ですらも困憊させるこの評伝、当事者にのしかかった心労ともなればいかばかりか。
結語に引用される他の著者の大田評をもってこの優れた仕事を締めくくるのは、なんとも心苦しくはある。が、やむを得まい、本書の振り返りとして、船橋洋一による以下の総括が絶妙に腑に落ちてしまうのだから。
大田に矛盾があるとすれば、それは沖縄という日本の近代史の巨大な矛盾に他ならない。
