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マツタケ――不確定な時代を生きる術

マツタケ――不確定な時代を生きる術

 

 

この本はキノコをめぐる旅についての物語である。その旅とは、不確定性と不安定性のあり様、つまり、安泰という保証がない生について探究するものだ。……不安定であることを受容して生きていくには、そのような目にあわせる人びとをののしるだけでは十分ではない(そうした行為も有意義であろうし、そのこと自体にわたしは異議を唱えるつもりはない)。あたりを見渡してみれば、このあらたな不思議な世界に気づくはずだ。想像力を働かせさえすれば、その輪郭をとらえることはできる。いまこそ、マツタケの出番である。荒れ果てた土地を好んで生きるマツタケが、瓦解への探検をいざなってくれる。そうした瓦解は、すでにわたしたちみなが暮らす環境なのである。

 

 アメリカはオレゴン国有林、かつてはポンテローザマツの産地として栄えた。この樹木、少々厄介な性質を抱える、すなわち、厚い樹皮に守られて極めて燃えづらい一方で、火の熱に反応して種子をばらまく。金のなる木を灰に変えられてはなるものかと防火に奔走していた林野局がそのことに気づくのはだいぶ後のことだった。皮肉にも、そんなことを知ってか知らずか、火入れを通じて森を管理していた先住民はとうに追い払われていた。かくしてポンテローザマツを失って荒廃した山地の間隙を縫うように、ロッジポールマツが台頭する。防火の恩恵の株元で秘かにマツタケの菌床は形成された。やがてアジアからアメリカへと流れ着いた(元)難民が、郷里で営々と引き継がれてきた狩猟の記憶を頼りに、キノコ狩りをはじめる。母国の戦争に倦み果てた彼らにとって「マツタケを狩ることは、労働(labor)でもないし、仕事(work)ですらもない」、それは「フリーダム」の象徴だった。狂騒の1980年代、収穫されたマツタケは程なく、日本のマーケットという出口を見つける。需要と供給の存在のみではこのマッチングは説明されない。コンテクストを異にする「熟練した翻訳家」があってはじめてこの取引は可能になった。気づいてみれば、「マツタケの年間の商業価値が、少なく見積もっても木材と同額」にまで成長していた。「こうして企業からの求人、訓練、規律がなくとも、マツタケは山となって日本に送られてくる」。

 

 アメリカ白人のビジネス・コードに則れば、ポンテローザマツが枯渇した時点で国有林の商業価値は終わりを告げていた。ところが、日本の食文化、東南アジアの狩猟文化、そしてアメリカの「フリーダム」がこのピンチをチャンスに変えた。文化的多様性と「翻訳」が不確実性に風と桶屋の新たな回路を導いた。

 とはいえ、マツタケの生態が同時に示唆するのは、単に多様性賛歌では終われない森の現実。それは攪乱なのか、乱獲なのか。「人間はふたつの方法でマツ類を広めている。植樹とマツの好む環境を作ることである。後者は意識的になされているわけではない。マツは人間が無意識に作りだした混乱を好む。マツは放棄された場所と侵食された土地をコロニー化する」。そしてその「マツ類は、マツタケと出会うことによって、はじめて繁茂することができる」。要するに、「瓦解」に次ぐ「瓦解」が作り出した束の間の独占状態、「グラウンド・ゼロ」をマツタケは象徴する。

 

 元をたどれば、「日本でマツタケが稀少化したおもな理由」からして明治式のグローバリゼーションがもたらした「瓦解」の産物だった、すなわち、「マツノザイセンチュウに由来するマツの消滅である。……はじめて線虫が輸入されたのは、20世紀の最初の10年間のことであった。米国から輸入されたマツと一緒にマツノザイセンチュウは長崎港に上陸したのである。……とはいえ、もしマツが健康ならば、感染しても枯れることはない。しかし、枯れるか、枯れないかという予測できない脅威が、巻き添えを食らうことになるマツタケをやきもきさせる。密集や光不足、肥沃すぎる土壌にストレスを感じていれば、マツは簡単に線虫の餌食となってしまう。繁茂した常緑広葉樹がマツを覆ってしまう。ときには青変菌がマツの傷口に繁殖し、線虫の餌となる。人為による気候変動が温暖化を引きおこし、さらに線虫を拡散させる。たくさんの歴史が、ここに凝縮されている。こうした歴史は、泡の世界を越えて、つぎつぎとおこる協働と錯綜に満ちた世界にわたしたちを惹きこんでいく」。

 

 そもそも筆者も認めているように、このマツタケウォルマート的スケーラビリティになじまない理由は、極めてはっきりとしている。つまり、市場があまりに小さすぎるから。ビッグデータなる至上の「翻訳家」が捕捉するにも及ばない隙間産業ゆえに「フリーダム」は成立する、言い換えれば、多様性は多様性であるにも関わらず、現実にその味を噛みしめることのできる人間はひどく限られている、それは客単価数万円の料亭フルコースに似て、あるいはまた、筆者の自己投影の通り、人文科学の行く末にも似て。

 単に計算可能性の網をかいくぐっているかに見えるがゆえに浮上する「フリーダム」、翻して主語を消費者に置けば、それはおそらく功利最適から隔てられた「瓦解」の病状を何ら超えない。消費者の幸福はセブンイレブンで買える、ユニクロで買える、アマゾンで買える。

「フリーダム」を知らない、消費者にとってこれに勝る幸福が果たしてどこにあるだろう。